うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

カントリー・ブルーズライブと、【コンテインメント(包みこむこと)】(タスティン入門より)


今日は、自分の受診で豊橋まで出てましたが、年に数回しか行かないコーヒー専門店で、ディープなライブのチラシを見つけました! そのお店は、いつ行ってもロバート・ジョンソンがかかっているので、大好きなお店ですが、チラシに出ていた一人の方が、マスターに似ていたので、聞いたらマスターでした! 興奮を抑えるのが大変でしたが、なんとか抑えて、平静を装っていました(笑)豊橋でR・Jなんてなんて素敵でしょうか?
 4月30日に是非行きたいのですが、仕事は大丈夫でしょうか?
土日に行きたい催事が多いので(当たり前か?)いつも残念な気持ちになります........。




 アップは『タスティン入門』にさせて頂きました。


結局、下記が第1に考えないといけないことですね。



『包みこむことというビオンのコンセプトは、クラインが導入した投影同一化のメカニズムから派生したものである。クラインは投影同一化のメカニズムの1つに、乳児期の恐怖を和らげる働きがあることを発見した。乳児はたえられない感情を母親に投影し、母親はそれを受け止め、しばらくの間それに自分を合わせる。のちに母親は、それを受け止められるものにして、再び乳児に返す。こうした意味で、母親は乳児の堪え難い感情にとっての「容器(コンテイナー)」になる。この容器をビオンは「中身(コンテインド)を包みこむこと」と表現した。』



 下記のように、重度であればあるほど、最早期に戻った支援方法で支援をしないといけないと繰り返し出て来ます。妄想ー分裂ポジションより前をみないといけなくて、自閉ー連続ポジションが見出されたのですね。
 非言語的であったり、前言語的なことですね。でも非常に難しい領域のように感じます....。



『前言語的な状態について知ることは、人間の発達と発達障害について理解するうえでのポイントになるという。こうしてみると、学習障害という現象の解明は、ひとえにコミュニケーションにおける、前ー言語側面の探究にかかっている。精神分析理論は現在、そのための最良の手段なのである。』




下記の最後の方にある【改定された管理のコンセプト】で出て来るテリーの事例は、現場ではよくある事ですが、参考にしなければいけない事例でもあります。




第8章 知的ハンディキャップと精神疾患
学習障害をもつ人の教育
〜特に入所施設において、知的障害者と毎日、緊密に接触する教師、看護師、ソーシャルワーカーは、かなり責任のある課題を負う。発達を促進させる最良の方法を見つけようとして彼らは、以前なら他の人々すべてが、どうにも対処できないと感じてきた人の生活をやりやすくし、管理する責任を負うことになった。ほとんど報いがないのに、その仕事には安定した感受性まで必要となる。学習と理解の難しさは蔓延するばかりで、そこに出現する行動や攻撃と関連づけて、その障害が自覚的に体験されることはない。ケア・スタッフはいつも出現する行動や攻撃の標的にされ、ダイレクトに敵意の焦点となるばかりである。スタッフがケアしている子どもやクライエントからの敵意だけでなく、親族の敵意がそこに加わる。親族は非難をスタッフに向けがちであり、成果がないのはスタッフの怠慢であると、不満を述べるのである。
 そうしたセッティングに、精神力動的な知識に基礎をおくアプローチが導入されると、教育スタッフやケア・スタッフはかなり安心することができる。ここで理解することが必要な力動とは、自閉症の特性による力動であって、個人内葛藤の力動ではない。ここでタスティンが描写した混乱錯綜やカプセル化という形態がかなり有効である不安混乱錯綜した行動は原始的な恐怖と結びついているのであって、必ずしも外的な促進要因と直接に結びつける必要はない。そう理解するだけでも、子どもの反応は新たに展開していく。知的障害者の管理に関するこのアプローチについては、次章でさらに詳しく述べることが必要になるだろう。
 かつて、教育不可能と考えられた大多数の人々はそのまま放置された。なぜならその多くは難治性の器質的な奇形・損傷に侵され、ほとんどあるいは完全に、言語能力がなかったからである。しかし、最良の発達を促進しようと試みる価値がないということはない。人によっては、認知を刺激し成長を図る環境ではなく、保護や看護などのケアが、価値ある最良の贈りものである場合もある。私がそう感じたのは、重度の重複障害をもつ8歳の男の子に、自分は何もしてやれないと、罪悪感をもっていた一人の女性教師に会い、励ます必要が生じた時であった。〜


第9章 学習障害についての精神分析的展望
コンテインメント(包みこむこと)
〜包みこむことというビオンのコンセプトは、クラインが導入した投影同一化のメカニズムから派生したものである。クラインは投影同一化のメカニズムの1つに、乳児期の恐怖を和らげる働きがあることを発見した。乳児はたえられない感情を母親に投影し、母親はそれを受け止め、しばらくの間それに自分を合わせる。のちに母親は、それを受け止められるものにして、再び乳児に返す。こうした意味で、母親は乳児の堪え難い感情にとっての「容器(コンテイナー)」になる。この容器をビオンは「中身(コンテインド)を包みこむこと」と表現した。〜



改定された管理のコンセプト
学習障害の「問題行動」に対する新しく確固としたアプローチはこれまでのものとは違って有意義で勇気を与えるものであり、患者の行動を改善し成果を示せという、ケア・スッタフがさらされているプレッシャーを、かなり減らすはずである。これまで考えられてきたのとは逆に、緊張や障害そして暴力の減少は、安全な雰囲気が増すことによってこそ達成できるのである。甘やかしや懲罰ではなく、支持的で十分に意味があり、そして秩序ある環境から自信は生まれる。
 その個人に危険をおよぼしたと思われる体験は、その人の心の平和に脅威だったはずである。しかし傷つきやすさは普通、問題行動の影に隠れてしまう。こうした事情を考慮するなら、安全感と安心感をはぐくむ体制の方が、ゴールと目標設定を強調しすぎてフラストレーションを高じさせる体制よりは多く、温和な行動を生み、そこに学習したい雰囲気が導かれるだろう。安全と安心というのは、自由放任主義ではなく、また、なまぬるく従順な環境でもない。安全な環境とは管理方法に確かな持続性があり、何が優先されるかについてスタッフ間に共有された理解があるということである。このやり方で何よりも優先されるのは、ケア・スタッフの訓練とプロフェッショナリズムと自制であり、それは、クライエントを訓練しようという発想よりも優先されるべきものである。
 問題行動を取り扱うとき、信頼感が確実で安定していれば、そこに理解が生まれる。優しさや共感だけでは十分ではない。見通しがきいて包みこむことのできる環境こそ安全感を促進させる。〜


〜テリーという名の少年は乳児期からずっと、かなり混乱した行動が続いていた。両親はついにこの子をコントロールするのは無理と考え、施設でケアを受けさせようと連れてきた。テリーが心を奪われていたのはジグソー・パズルであった。技術力は高くスピードも速いのに、テリーはいつもこのパズルしかしなかった。適応能力を評価したメインのスタッフは、テリーの発達を促し、能力を広げて先へ進もうと考えた。このケア・ワーカーは、スローペースを促進させようと計画した。ジグソ−・パズルを変えても問題なく、進歩は早まるだろうと考えたのである。しかし、テリーがパズルにしがみつくのを引き離すことはできなかった。ケア・ワーカーはついに、テリーが自由に新しいものに関心を広げやすくするために、パズルを取り上げ隠してしまう決心をした。テリーは初めこれに激しく反応したが、それはあらかじめ予想していた範囲内であった。ところが、テリーの行動は続く1,2週間というものひどい状態になり、幻覚が起こっているのではないかと心配させるほどになった。スタッフは、テリーにとってジグソー・パズルがそんなに大切だとは予想もつかなかったのである。こうした行為は、テリーを罰する目的でなされたわけでなく、発達を促進しようとしてのことだったから、なおさらであった。
 ジグソー・パズルに夢中になるというテリーの行為は、テリーの行動と興味だけから理解すべきものではなかった。テリーがマスターし、完成できる課題がそこにあるという、包みこむという機能から理解すべきであった。テリーには、包みこむ機能を普遍的なものにする内化の機能が欠けていたために、テリーが強くしがみつくジグソー・パズルは、包みこむことの具体的な経験になっており、それがまた他の活動も可能にしてくれていたのである。テリーは、落胆やフラストレーションを回避するために、こうした行動を利用して、時間を埋めていた。テリーの場合、ホットするという感情は、満足という経験からではなく、行動の繰り返しによって、緊張が避けられる経験からもたらされるのであった。テリーには言語能力がいくらかあったけれど、それは情緒的なものを包みこんだり、思考や感情を言葉で表現するという目的には適さない類のものであった。またテリーの使う言語能力は、ケア・ワーカーの意図を理解しそれに協力するというレベルには達していなかったのである。〜


結論
〜タスティンの著作の中でも十分に解説されていることであるが、ビオンは著作の中でこのことにふれ、前言語的な状態について知ることは、人間の発達と発達障害について理解するうえでのポイントになるという。こうしてみると、学習障害という現象の解明は、ひとえにコミュニケーションにおける、前ー言語側面の探究にかかっている。精神分析理論は現在、そのための最良の手段なのである。