関ジャニを見たいと言っていた利用者さんが、いざ時間になると男子ですね!
やっぱりWBCを見るって(笑)男子としては理由もなく血が熱くなってきます!
個人的には巨人以外の選手をめちゃくちゃ応援していますが.....。
チャンネルを色々と変えましたが、結局はWBCになり(笑)途中で消灯になりました.....。
最後は同点でしたが今は?どうなのでしょうか?
早朝にファミマでコーヒを飲みながら、打ち込んでいた箇所のアップです。
早朝にマックかファミマに行ってコーヒを飲みながら本を読むのが、なぜかしら落ち着きます(笑)
なぜでしょうか(笑)
下記の箇所が非常に参考になるケースもありますね。
『このような様々なレベルでの「境界のなさ」は、発達障害のこころの世界に特徴的であると指摘されている。そして、このような「境界のなさ」ゆえに、彼らは外的な事象に直接的な形で干渉を受けやすく、ときには物理的な境界さえも成立しがたいほどに〈剥き出し〉であるために、聴覚や触覚における極端な過敏性を呈することもあるのだ。』
第5章 イメージにおける境界の成立 ―騒音被害を訴えた成人男性との面接過程から
古川真由美
1,はじめに
発達障害という概念が広く知られるようになるにつれて、近年、臨床の現場においても、そのように見なされる事例は増加している感がある。そもそも「発達障害と定型発達は、その間に明確な境界線を引くこと自体できない」のではないかという提言さえあり、白黒はっきりした診断が難しい「灰色の発達障害」では、殊に、軽症事例であるほどバラエティに富み、個性豊かであることが指摘されている。その意味で、健康的に保たれている部分と、発達障害的な特徴が見出せる部分と、決して一次元的な見方ではなく、それぞれの事例について個別にその多様性を見ていく必要があるだろう。〜
4,考察
(1)「境界のなさ」をめぐって ―発達障害との相違点と見立て
面接を開始した当初のAさんの問題は、たび重なる騒音被害の訴えや隣人トラブルに見られるように、容易に侵入を許してしまう「境界のなさ」にあったと考えられた。音への過敏さも守りの薄さを表しており、幼少期の幽霊との遭遇や、路上で死体を目撃して平気でいるような特異なエピソードからも、この世とあの世、生死の境界がはっきりしておらず、日常を暮らす上では、本来、別次元とされているものが容易に混じり合ってしまうAさんのありようをよく物語っていたように思われる。愛猫や知人の死に接しても、実感は得られないままであった。また詐欺被害や、金銭トラブルが繰り返されたことからも、対人関係上で問題化した自他の「境界のなさ」がうかがえる。
このような様々なレベルでの「境界のなさ」は、発達障害のこころの世界に特徴的であると指摘されている。そして、このような「境界のなさ」ゆえに、彼らは外的な事象に直接的な形で干渉を受けやすく、ときには物理的な境界さえも成立しがたいほどに〈剥き出し〉であるために、聴覚や触覚における極端な過敏性を呈することもあるのだ。
しかしながら、Aさんの事例を狭義の発達障害と見立てることは、いくつかの点で難しいように思われる。
まず、Aさんの語りからは、その生育において、重要な他者との情緒的交流が欠けていたことや、実際に文字通り「境界のない」家庭環境であったことが容易に推測される。しっかりとした構造のない中で、成長のための手がかりとなる適切なモデルが見出せずに困惑していた様子は、様々に表現されており、ある意味でAさんは、自然に「発達」する機会を奪われていたとも言えるだろう。そんな中、「のどかな田舎」はそれなりの生育環境を提供していたのだろうが、都市部への転居で生活環境が激変した10歳前後より、学校場面での不適応が顕著となった。そして、この頃には父の不在も重なり、いよいよ家庭が崩壊していく。必ずしも実際の父親が担うものとは限らないが、Aさんの家庭環境においては、安定した「枠」となる父性が著しく欠如していた様子がうかがえる。滝川一廣は広く発達障害を捉え、「虐待のような養育の過度の不全があったりすれば、それが発達の足を引っぱる負荷要因となって、発達の遅れをもたらしやすくする」と述べているが、それを裏返せば、Aさんのように、本人の通常の発達をあまりに阻害するような家庭環境で生育した事例は、脳に器質的な問題を持つとされている狭義の発達障害の事例とはやはり区別できるともいえるのではないだろうか。〜
〜潜在的にはこのような「物語る」力を持ちつつも、現実のAさんは、何十年もの間、区切りのない、境界のない世界に生きてきた。そのようなAさんとの心理療法で目指されるのは、混沌とした世界に境目をいれること、境界を生み出すことだったのだろう。心理療法にはそれ自体、境界を作りだす働きがある。時間と場所とを限定し、構造化された治療枠が守られることによって、「治療の時間は俗に対する聖なる時間として、クライエントの全生活に節とリズムを」を与えるからだ。この枠組みそのものが「主体を生成するための場を提供」するという意味を持ち、その内側でクライエントの言葉は他者であるセラピストに届く機会を得る。〜
(2)夢における切断と分離 ―際限のなさから境界の出現へ 〜河合隼雄が述べるように、夢こそまさに「境界」存在の典型であり、それは意識と無意識との境界にあるだけでなく、心と体、自と他、生と死などの境界にも関連するからである。〜
(3)描画に見られる「境界」性―真夜中の風景構成法と龍のスクイグル
〜この語、ただ一度だけ描かれたスクイグルでも、やはり馬と龍の目は赤く彩られ、「この世のものではない」と異界性が強調された。「赤」は、血の色であり、火や太陽の色でもあることから、原初からの自然の力や生命の源が連想される。赤坂憲雄は『遠野物語』における「色彩」について論じる中で、「赤」は日常から隔てられた非日常的な時空への畏れを刻印された色であり、何らかの過渡期を暗示するいわば境界の色であると述べている。このような山の神、天狗、山人といった、神々や生きものらは、「生/死のはざまに揺れる禁忌の匂いが濃密に漂う」赤色をまとい、「山という名の畏怖に満ちた異界、人間の制御することの不可能な荒ぶるカオスの領域から」やってくるという。その意味で「赤」は、境界との接触を暗示する色であるとも言えるだろう。
「誰も私の話を聞かない」と憤慨し、幽霊の側に思いを託していたAさんもまた、赤坂が論じている『遠野物語』に描かれる山人のように、境界のカオスからやってきた異界性を帯びていたと考えてみるとどうであろうか。このことは、来院した際のAさんの「見られている」という訴えとも関連していたのだろう。面接室での筆者が描画世界に何とも言えない不気味さや怖さを感じ取ったことは、境界領域と出会った瞬間の畏怖の体験とも見なすことができる。〜