うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

久保惣記念美術館さんと、リーパーズフィルムとペトロールズと、心理関係の本を2冊続けて読みました | のぞみ整体院日記と、【このような成熟変化を基礎として、よい体験が優勢であれば、部分対象を自己の部分も統合されることが可能になる。】

 

 

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 久保惣記念美術館さんに、撤収の前に行ってきました。展示されている源氏物語の絵図は色が本当に素敵でした。図録ではその色は味わえなかったので、購入は止めました。チラシもチェック(笑)してきましたが、まあその日が最終日ということもあり、見当たりませんでしたが、意地で(笑)下になっているのでは?と探したらありました。明日には捨てられる運命なので、いくつか頂き(笑)ました。憧れの場所に置かれただけでも御の字ですね。

 それと訂正があります。昨日アップさせていただいた、自分が工芸と芸術の間を漂っていたいと、若い時分に思っていたことを、見事に見破られたコメントは、鈴木君ではなかったようです。申し訳ありませんでした。是非とも名乗っていただきたいです!

 

sleepersfilm.com

 

 最近、なぜか?忙しいので(笑)、一瞬にして情報を得ようと必死です(笑)。

昨夜、用事が全て終わって、一人打ち上げをしている間に、ふとペトロールズが聞きたくなって、ユーチューブで開いてみたら、かっこいいミュージシャンばかり揃っていてびっくりしました。時代は繰り返すといいますが、本当の実力とエンターテイメント性がないと生きていけない時代になりましたね。それが本来の姿ではないでしょうか?

 大阪の往復は東京事変の丸の内サディスティックだけ流していましたが(笑)。約10時間を一曲だけで過ごせる人間です(笑)。

 

早朝に大阪を出て、お昼前には帰宅して、作品をすぐに卸してお昼を頂いて、重度の方の口腔ケアを見てもらいに現場に行きました。これも人間関係ができていないと、その方がうまくできても(今日は自分でしたが)、口を開けることさえ困難な時があります。そんな時、診断基準なんて言ってられません(笑)。皆藤先生が言われるように、生きた時間を一緒に過ごすことが一番大事なことです。

 

 

 白柳先生のブログも覗かせて頂きましたが、何やら難しいことが沢山並んでいました。杉山先生とのことも書いておられましたが、自分はクラインマンに賛同しているので(勝手にw)、診断基準よりもその方の日常や成育歴のほうを重視するのになぁと思ってしまいました。最近の心理学は脳から入りすぎている気がしませんか?そうしないと認められないようなことでもあるのでしょうか?オワコンといわれる理論の方が患者さん・利用者さんを人間として見ているように思います。ソンタグの言葉を借りるなら、暴力は人間を物にしてしまうような感じに感じてしまうのは自分だけでしょうか?これだけいろんなテクノロジーが発達していても、上記の動画のように、人間が作り・弾くという暖かさに満ちた音楽のほうが癒されるのと同じ気がします。今はやりのネオソウルギターも、ジミヘンが既にあの時代にやっていたことですよね?と(笑)、ジジイには納得いきません(笑)。確かにコードストラクチャーや進行はおしゃれですが......。

 

心理関係の本を2冊続けて読みました | のぞみ整体院日記

http://blog.nozomi-seitai-in.moo.jp/?eid=231

 

 

 

 ~ところで、クライン派の人々(Klein,1935;Segal,1957,1964)はよい部分対象とわるい部分対象との統合を説明するのに、成熟という要因と実際の体験との組み合わせを援用する。

 成熟という要因には、本能欲動の強度の減弱と認知能力の展開があり、現実検討能力と記憶能力の安定化も含まれる。

 このような成熟変化を基礎として、よい体験が優勢であれば、部分対象を自己の部分も統合されることが可能になる。

 というのは対象との満足のゆく体験が、よい内的対象への愛着とよい内的対象からの愛情とを強化し、わるい対象に対する乳児の恐れを少なくする。 そうしているうちに、わるい対象は投影や投影同一化によって無理に追い出さなくてもよくなる。

 その結果として、迫害不安は減少し、よい対象をわるい対象からそれほど情緒的に分離させておく必要はなくなる。

 こうした過程が進むうちしだいに、自己のよい側面とわるい側面もよい部分対象とわるい部分対象も、単一の全体対象、単一の全体自己のこと性質として体験されうるようになるのである。