うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

菜の花と【情動調律を受けることがないと、人の活動は、孤独で、私的で風変りである。】


今日は、事務仕事の日でしたが、明日のバンドクラブの準備と(ドラムマシンの設定や機材を車に載せたり)カーグの題材の菜の花を、関係者の許可を得て、頂きに行きました。

 今年は開花が早くて、12月に満開を迎えたそうですが、満開時に親分に言いましたが、取り合ってもらえず(笑)、今日は強く突っ込みました(笑)、だから12月に描けばって言ったでしょ!と(笑)。
 説明をして下さった方は、食用の菜の花を作っておられて、食用の方は育ちが例年よりも20日遅れていると、話してくれました。
自然相手のお仕事も大変ですね......。台風や12月の異常気象など、いろいろありましたね....。





 今日は、朝少しだけ本を読みました。後2章で終わります。

 やはり、現場にいるとスターンの言っていることが、理解できます。
下記は、本当に大事な箇所だと思いますが、一部だけでは伝わりにくいので、少し他から引用しました。
 情動調律と言うのは、本当に大切なことだし、現場でも応用ができます。
 個人的にはコミュオンの概念が難しいところです。分かったような、分かっていないような感じです。
無理やり解釈するよりは、もう少し勉強してみます。心の中に入らずに、形だけ真似したというところでしょうか?
 自閉症の方の三つ組みは、個人的には同じことを三つ並べている感じしかしませんが.....。
本当に勉強になります。



微小調律や誤調律が乳児に影響を与えることは実験的に簡単に示すことができます。これらが起こると、乳児は普通、今している行動を変化させたり中断したりするのです。これこそまさに微小調律や誤調律の目的であり、その結果も容易に見きわめることができます。これに対し、コミュニオン調律の場合は、状況が違ってきます。この場合はたいてい、母親がコミュニオン調律をした後も、乳児は特別何も起こらなかったかのように振舞い、乳児の活動は妨げられることなく続きます。ですから、調律が“入り込み”、“とらえ”、その結果ある精神状態を“招いた”という事実を推察できても、その証拠は何一つ得ることができません。


※コミュニケーションとコミュニオンの違いは、コミュニケーションは「他者の信念や行動システムを変えようと、情報を交換したり伝達したりする。」ことであり、コミュニオンは、「他者が何をしていようが何を信じていようが、それを全く変えようとすることなく、その人の体験を共有すること。」



 下記の様な、報告もあります。
コミュニオン調律群では、この時期に適応的な自己中心性、万能感のある自己像の形成がうかがわれた。過剰調律群では、万能感はさほど高くなく、現実的な自己像の形成がおこっており、早熟な傾向にあるが、失敗をおそれ、自己評価が下がってしまうものもみられた。


 下記は、Stolorow等からの引用ですが、分かり易いですね。

「調律されたことのない感情状態は、対人間で共有可能な体験の脈絡からは孤立し、隔離されたものとしての体験」


「情動調律を受けることがないと、人の活動は、孤独で、私的で風変りである。もし早期において、情動調律が存在しないか功を奏さないならば、共有された体験の欠如がおこり、それが孤立感や、自分のニードは全般的にどういうわけか受け入れがたく恥ずべきものであるという確信を引き起こす。」

「養育者から調律されなかった情動は、曖昧で漠然として、揺れの収まらない情動や気分になり、それはまた共有可能とはならず、そのために自己には統合されないままとなる。Sternの概念が精神分析において重要なのは、『私ではない』体験が、非言語的ないしは暗黙の形で妥当性の承認の不全によってもたらされうるとしている点であろう。」