うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

貫頭衣と、【現実がスペクタクルと化したと言うことは、驚くべき偏狭な精神である。】

 

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今日は、展示とワークショップの打ち合わせで、大阪に来ていて、貫頭衣なるものを(レプリカですが)はじめて見せて頂きました。ワークショップで使う布に、貫頭衣のレプリカを作るのに使った布があるのでとのことで、その生地とそれで作った貫頭衣を見せて頂きました。日本の文化は、ややもすれば、大和・奈良時代からだと思われがちですが、弥生時代は勿論、縄文時代に既に美術館的なものがあったと、学者さんから聞きました。文字=文化と考えがちなのかも知れませんね。

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 ミニギャラリーでは素敵な作品展をされていました。

友達になりたいと、勝手に(笑)思わせて頂けた作品でした。

 

 

 本は『転移と逆転移』H・ラッカーに入りました。

訳者の坂口信貴先生の訳者あとがきだけでも、一読の価値がありました。先にあとがきから読ませて頂きました。

 

 

 ソンタグを読み終えました。下記を読ませて頂いて、その地方独特の文化が土着的であるほど、差別と攻撃を受け続けている情景が頭の中に、際限なく出て来ます。それも映像、写真も動画も映像、実際にそれが行われているのを傍から見るのも映像と変らないのでしょうか?そう思うと、本当に力もお金も必要で、それがないと何もできないし、させて頂く事もできないのではないか?と、落ち込みますね.......。

 先日、近い将来の法人のあるべき姿を、理事長、副理事長と話をしたばかりですが....。でも、消極的になっても仕方がないので、周囲の協力も得(労務関係で、無償でお世話になっておられる方が、この度叙勲されます)ながら、前を向いて進んで行くしかないとも思っています。

 

  現実がスペクタクルと化したと言うことは、驚くべき偏狭な精神である。

 それは報道が娯楽に転化されているような、世界の富める場所に住む少数の知識人のものの見方の習性を一般化している。

 その見方は「モダン」な人々が最初に身につけるものであり、現実的な対立や論争をもたらす。党派に基盤を置いた、伝統的な政治学を解体するための必要条件である。

 それは誰もが見物人であるということを前提にする。それはかたくなに、不真面目に、世界には現実の苦しみは存在しないことを示唆する。

 しかし、他の人々の苦しみの見物人になったりならなかったりする、怪しげな特権を享受している富める国々を世界だとみなすのは、途方もなく間違っている。

 ちょうど、戦争と戦争の巨大な不正・恐怖をじかに体験していないニュースの消費者が、自分の思考の枠組みに基づいて、他人の苦しみに反応する能力を一般化するのが途方もない間違いであるように。

 テレビ映像に慣れているというには程遠いテレビの視聴者が何百万人もいる。現実を操作するという贅沢とは縁がない人々である。 〜