うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

バタバタした大阪行きと、アリババのジャック・マー会長「日本を尊敬。だが惜しいことが2つある」。退任直前の助言と、【 山ほどの知識を持った分析志望の人たちが、病者との体験を一方的に病者の病理性として理屈づけをし、治療者側の幼児性や神経症を被い隠す姿は、学会でもよくみかける。】

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 親分から借りた車の調子も悪く、博物館さんとの打合せと私用がとの時間がタイトだったので、バタバタした大阪行きになりました。

 安宿は、大きな道路に面していて、チェックインしてから、チェックアウトするまで、車が途切れなく走っていました。大阪の街も変わった所は、全く分からないくらいに変っていて、土地勘があっても、交通の激しさに呑み込まれてしまいました。

 1月15日からの展示ですが、全く前に進んでいなくて、白柳先生にもするって言った手前、嘘をついたと言われても仕方ない様な打合せでしたので(笑)、大分前のですが、星野眞吾賞などの図録をお持ちして、誤魔化してきました(笑)。本当に展示はあるので、はっきりしたら皆さんに案内を送らせて頂きますね!

 

 ホテルでネットのニュースを見ていたら、少し前のものですが、引っかかったので、アップさせて頂きました。ただ単に、女性・男性と言われますが、女性にも女性性だけでなく、男性性も持ち合わせているし、男性もそうなので、大雑把な意見として・分かり易い意見としては共感できますが、女性でも全体を見る方、男性でも詳細を見る方がいますので、性に拘る事はないかも?とも思いますが、色んな打ち合わせに出させて頂きますが、ジャック・マー会長(前)が言われるように、若い方の発言をもっと取り入れる事は大事だと思われます。今は勢力がなくなってしまいましたが(ソンタグの言葉を借りれば、マスメディアのせい?)、小池百合子さんが、地方を変えるのは、若者・よそ者・ばか者と言われてたのを思い出しました。怖い物がないというのは、決して悪いことだけではないように思いますが、如何でしょうか?

 本は、『転移と逆転移』のアップです。東畑先生や、皆藤先生のアップも沢山控えていますが、ちょうど自分の周囲に起こっている事と重なる箇所でしたので、先に出させて頂きます。

 現場での支援も、慣れれば慣れるほど、慣れだけで出来てしまうので、本当に自己否定が重要になってきますが、後輩からの『凄いですね!』の言葉に、ついつい自分の方が実力があるのではないのか?と、自分の至らなさを、慣れで出来ているにも関わらず、本当の意味での支援にはなっていないのも関わらず、自分で自分を認めてしまう事も良くあります(勿論、自分も含めて)。でも、毎日その方をよく見させて頂いていると、その方にも変化があり、進んでいる時も、退行している時もあるので、+α・-α(そんなのあったっけ?)を考えて、行かなければいけません。その時にステレオタイプになってしまっていると、応用が出来ず(きちんと勉強したと言う前提がまずはあるべきですが)、その人にとって、百害あって一利なしになってしまう事が多いです。

 下記を読ませて頂き、余計にそう思いました。不器用でも、勉強不足でも、利休が言うように、誠意を込めていれば、その方は理解してくれるので、まずはその方と、やはり生きた時間を一緒に体験し、各々が自分に内在化できるようにしないといけないのかも知れませんね。支援も一方通行ではなく、相互理解・協力の下進んで行くもので、それがないと、同じ道を行ったり来たりするだけで何も変わりません。

 分からないことを、分からないと言えるということは、人間が出来ていると言うだけでなく、本当のことをいつも求めていられるから、言えるのでは?と、最近特に思います。

転移と逆転移
H・ラッカー
坂口信貴訳

訳者あとがき
 〜Racker博士は、分析医側の幼児性や神経症を当然あるものとされており、患者と治療者という区別も本質的にはないことを実践の中で示している。

 それは逆転移のとりあつかいや理解の仕方によくあらわれている。

  山ほどの知識を持った分析志望の人たちが、病者との体験を一方的に病者の病理性として理屈づけをし、治療者側の幼児性や神経症を被い隠す姿は、学会でもよくみかける。また、他人の発表については常に発表者の逆転移が指摘される。

 このようなことは私自身もしてきたことであり、知らぬ間に他者とは対等に話せない偏った人間へとますます自分を駆り立ててしまったように思う。

 ことに「心に浮かぶことのすべてを治療者に伝える」という分析治療の基本規則をとりかわしているかの如き錯覚に陥って他者に向かう癖がついてしまっていた。

 自分が精神分析を信奉すればするほど、それとの合体が自分の自信となり、大変傲慢な振舞いをしていたと思うと赤面のいたりである。

 これこそ、本書に述べられた躁的防衛あるいは無意識的な躁病にほかならない。