昨夜、職員さんから、うたたねからきれいな月が見えていると、写真が送られてきました。自分の携帯では、こんなにきれいにお月さんが写らないので、羨ましい。
今日は、オグデンを休んで(笑)、1冊前に読ませて頂いた、中動態の世界に、ハンナ・アーレントが出ていたので、『イエルサレムのハイヒマンー悪の陳腐さについての報告』を思い出し(出て来てもいますが)、映画も思い出したので、なぜか?見たくなったので、勝手にアップさせて頂きました。
哲学は自分にとって難解ですが、ハイヒマンのようなものは、分かり易くて勉強になります。自分たちもただ言われたことをやるだけでなく、行為自体に疑問を持ちながら行うようにすると、もっと身につくし、違う視点からも見る事が出来るようになるとも、思われます。
今日は中抜け勤務で、早番と遅番なので、早めのアップです。
下記は、立派な言葉ですが、今の世の中、権力と暴力は表裏一体化していないでしょうか?服従は支持だとも言われますが、それは能動態と受動態だけの世界で見るからでしょうか?受動態は、中動態から派生したものと書かれていますが、中動態からみれば、服従は支持にはならないのでしょうか?
例えとして「雨が降っている」という文章が出て来ましたが、主体がないので中動態と考える事ができる文章でしょうか?自分にはまだまだ、わかったような、わかっていないような。きっとわかっていないと思います(笑)。
中動態の世界意志と責任の考古学
國分功一郎
第5章 意志と選択
9 アレントと一致の問題アレントもまた暴力と権力を区別しているが……
~アレントは権力を定義して次のように述べる。
「権力(power)は、ただ単に行為するだけでなく、一致して行為する〔act in concert〕人間の能力に対応する。権力は決して個人の性質ではない。それは集団に属するものであり、集団が集団として維持されている限りにおいてのみ存在し続ける」
権力は集団的なものであり、複数の人間が一致して行為するところに存在する。ここからアレントは権力と暴力の違いを次のように説明するに至る。すなわち、権力の特質は人間が一致して行為するところにあり、暴力によってはそのような一致はもたらしえない、と。
アレントは他ならぬ銃の例を取り上げ、次のようにはっきりと述べている。
「銃身からは決して生じえないもの、それは権力である〔what never can grow of [the barrel of a gun]is power〕」。