うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日のうたたねと、「アップロード」が描く“死後の格差社会”は、コロナ禍で現実味を帯びてきた:ドラマレヴューと、東京都 新たに107人の感染確認 5月2日以来 新型コロナと、【暴力のない社会が存在しないのと同様に、コミュニケーションの一形式としての陰性と無縁な集団もまた存在しない】

 

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 午前中は、涼を求めて泉福寺さんに行きました。木陰が多いので涼しいです!エアコンが効いている、蔵王山の展望台はこの状況下、利用しにくいですしね........。

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 昼からは、森林浴に皆さんで行きました。

 男子の入浴介助を終えて帰宅しました。

 

  少し前にアップしたいと思っていたものですが、「アップロード」は見てみたいですね!

 

 

 また、首都圏が大変なことになりそうですね......。当面、通学は出来そうにありませんね。いつになったら皆さんとお会いできるのでしょうか?

www3.nhk.or.jp

 

 「暴力のない社会が存在しないのと同様に、コミュニケーションの一形式としての陰性と無縁な集団もまた存在しない」は、重い言葉ですが、真をついていますね。人種差別が、世界で言われていますが、無理やり文化やアイデンティティを壊された方々からすれば、何を今更的に思ってしまうのではないでしょうか?線は引けないけれども、文化やアイデンティティを元に戻せないのなら、新たにそれを創造していくしかないのでは?と、思ってしまいます。

第3章 子どもをめぐる現状
1 排除される子ども
学校教育にみる排除の構造
 坂は、現代社会における排除の構造の存在を論じるなかでない学校教育のいじめにみる排除の構造について取り上げている。その論述は次のように概観される。
 ず赤坂は、いじめの定義の問題点にふれ、「暴力のない社会が存在しないのと同様に、コミュニケーションの一形式としての陰性と無縁な集団もまた存在しない」と述べる。

  して、この意ではなく、第2章で述べたジラールや今村が指摘する意味での暴力、つまり満場一致の、排除のための暴力を「いじめ」と捉える。

 いで、養護学校が義務化された一九七九年ごろから、いじめが新聞報道され始めたという時期的符号を取り上げ、養護学校の義務化を次のように考察している。

 れはいわば、秘め隠されてきた排除の構造が、市民社会の表層へ浮上してきていることを象徴するような事件であった。

  ……護学校の義務化というできごとは、……均質化を求める効率至上主義的な、市民社会を生きるわたしたち自身のある要請と選択の結晶であったといってもよい。

  いずれ制度と心理の両面において、それは教育の現場に大きな影を落としている(赤坂 一九九一)。