うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

ギターの弦と、「自己選抜」と、【広い臨床学的視野で見ると、セラピーを必要としているのは、他者とともに協働調整することができない人たちです。】

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 年初に頂いた、ギターの弦に張替えました。

何十年も、エレキは、アニーボールだったので、アンプを通したしたらどんな音になるのか?楽しみですね!

 

   先程、ネットのニュースを見ていたら、下記の様なものがあり、記事の内容よりも、コメントに目が行きました。

 みなさん、逞しく生きておられて、元気をもらいました!

学歴がなくても、一つのことに真摯に向かっていれば、色々なアイディアが出て来ますよ!ネットだけでも、選ぶ能力があれば、宝の山だし現場にいるならなおさらです。

知識なんて、使わないと忘れるので、今していることについて、徹底的に調べて、調べまくって、自分がやっていることに応用できれば、自ずと社会的地位を築くことも可能です!今までの自分の悲観的な考えを、パラダイムシフトしてくれるような人や、現場に出会えれば、もっと良いですね!

 何を隠そう、自分も貧困家庭で、思いやりのない父親に育てられ、逆にあんな男にはなりたくないと、親戚に止められましたが、大阪をでて苦労もしましたが、それがビオンの言う痛みだったのか(笑)、何とか生きています(笑)。

 今となって振り返ると、もっと動けば良かったなと、ちょっと後悔もありますが、何とか飯を食って、息をしています。その平凡な毎日が、一番大事だと思えたことだけでも、今は幸せです。

 ギターも弾かないと鳴らないし、現場での感性も、使わないと、勉強しないと磨かれません。自己選抜は、自分でしない方が、自分の経験からも良いと思います!

 

 

headlines.yahoo.co.jp

 

 

 

 夜勤明け、ファミマで本を読んでから帰宅し、なんやかんや(笑)用事を思い出し、事務所に戻って、給与明細など皆さんに配って、また帰宅しました。

 ベティ・ジョセフをまだ読んでいますが、現場にいると色々あり、今はポリヴェーガル理論入門に頭が行っているので、ちょっと戻ってみました。

 心身不二ですね!

 

 

 下記は、メール等が発達したおかげで、言語障害のある身には、本当に助かっている事も事実です。機械や道具に使われてしまうので、何とか疲れという言葉が出て来るのでしょうね(笑)。使うものですね!スマホタブレットを考えたり作った人は、自分の子どもには時間制限しているというのも、有名な話ですね。

 別にみんな違って良いのでは?と、思います。

一番最初に働いた施設では、何を勘違いしているのか?少し話せることが出来る方が、筆談で素敵な言葉を沢山発してくれるのに、きちんと口で伝えてって.......。なんとセンスが無い支援でしょう(笑)。彼女の個性をなくしてしまって、表情も暗くなっていましたが、筆談を認めた支援者には、芸術的な言葉を沢山投げかけてくれていました。現在もそうしてくれます。それも、その人にあった表現で良いのではないでしょうか?立派な方がそういったからって、その言ううとおりに自分ができない子ともあるし、一番合ったやり方でやるのが、一番!ですね。

 

 どの仕事も、現場で働いている人間を見下す傾向がありますが、現場こそ臨機応変に、確実に判断して、それを直ぐに実行に移さないといけない部署はないように思います。一番支援し、毎日見ているのは、現場の人達ですから、みなさん自信を持ちましょう、と自分に言っていたりして(笑)。

 経営していたら、経営の判断も瞬時にやって行かなければならない状況も多々ありますが、現場は楽しいし、飽きないですね!

 下記との関連が、段々なくなって来ましたが(逆に批判している?)、勉強になった箇所でもあります。夜勤明けで、頭が回らないと言う事もあります(笑)。

 

 

 

 

社会交流の信号:迷走神経の自己調整と「合図がわからない状態」

 

 まず他の人たちが何を感じているのか、まったくその「合図」が読み取れない人がいます。こういう人たちは、自分たちの生理学的状態を他の人と一緒に協働調整する能力がないのです。
 では、別の見方をしてみましょう。物を使って自己調整する人たちについて話します。社会的コミュニケーションのスキルが欠けていて、他者と協働調整できない人たちが、テクノロジーを開発し、インターネットを使った社会的コミュニケーションの技術を私たちに押しつけています。この新しい技術は、ソーシャル・ネットワークと呼ばれています。私たちは、コンピューターを使い、スマートフォンでメールを打ちます。これにより、人間の相互交流の本質である、じかに対面する体験がはく奪されています。私たちは、かつての共時的か双方向の交流ではなく、伝言を残し、その相手と実際に会うのは後回しという、時間を共にしない方法へと移行しています。他の人たちがいるところでは、自分の生理学的状態や行動を調整できず、物を使って調整する人たちの原理の上に世界が組織されるのを、私たちは容認しているのです。
 広い臨床学的視野で見ると、セラピーを必要としているのは、他者とともに協働調整することができない人たちです。人は、他者とともに協働調整できないと、物を使って調整する状態へと移行し、適応しようとします。