うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

節分と晴君の誕生会と、『触れることのできないものへの自閉的恐怖』


 今日は節分と(明日ですが)晴君の誕生会がありました!
晴君の担当職員さんが節分を意識した料理、恵方巻きと鰯のフライ等を頑張って用意してくれました。

 晴君が選んだケーキもあり、竜宮城に来たかのようでした(笑)
ショートさんが一人、体調不良でキャンセルされたので、おっちゃんがその方の分頂いて帰りましたが、年寄りには(笑)料理だけで十分堪能できました!

 晴君の勢いに、皆さん(全員で9名)負け?ゲラゲラと楽しそうでした。おっちゃんは晴君にケーキの箱を被せられて、まーちゃんと戦隊ごっこをしていました(笑)
 皆さんに祝って頂け、晴君も本当に楽しそうでした!


 今日は一日事務仕事(途中でショートの方とドライブと池ノ原でお薄を頂きに行きましたが)で、給与計算など沢山出来ました。

 下記は、朝早めに出て、ファミマでコーヒーを飲みながら打ち込んだ場所です。
マックかファミマ(うたたねの隣です)で、100円のコーヒーを飲みながら本を読む事が最近多いです(笑)

『しかし自閉症児にとっては、具体的な形で支配されて操作されるものだけが、現実であり安全に思えるのである。』だからTEACCH等の効果があるのでしょうね。


《触れることのできないものへの自閉的恐怖》
 自閉症児にとって、安全は、彼らの一部であると感じている母親の身体を絶対的な支配下に置いていると感じる妄想によって左右される。自閉対象の操作がこの妄想を支えている。これらの対象は母親の身体の象徴ではなく、自閉症児の身体の一部として経験され、意のままに支配できる。実際に触れることのできる母親の身体の断片と感じられる。ハンナ・シーガルの表現では「象徴等価物」と言われている(Segal,1957)。知性は支配と操作のために形式的に使われる。知性は、子どもがそうであるはずが感じられるほど、物事を限定することができるので、だからなおさら子どもが物事を何であるかを認識する手助けをしているのである。しかし情動というものは全く別物である。触れることのできる物質的対象のように、情動に支配されたり操作されたりできない、しかし自閉症児にとっては、具体的な形で支配されて操作されるものだけが、現実であり安全に思えるのである。したがって情動状態は非現実と感じるか、あるいは極めて邪悪で危険な身体の内容物であると感じられる。こうした子どもと情動について話していると、彼らは私たちが何について話しているかを理解できないか、あるいは危険で安全ではないと感じるので、顔をそむけてしまうのである。彼らは私たちが危険な身体的物質を投げつけていると感じてさえいるかもしれない。彼らは、安心させ、豊かにし、触れられもせず、安全にする情動の側面を、利用できない。
 成長や治療という、安心させるが触れることのできない過程も同じことである。この過程は見ることも触れることもできないので、彼らはこの過程を信じることができない。このような子どもは、自分の身体表面に追加の断片を貼り付けることで、自分自身を成長させられると感じている。これはかなり具象的な類いの模倣である。また、彼らは、この断片が他者の身体からむしり取られ、他者の身体はこれらの断片を取り戻そうとしていると感じているので、こうした反応は引き続き恐怖を呼び覚ます。彼らは、コントロールできないものごとが生じるのを大変恐れているので、何もしなくとも自然と成長が起きるという保証は役立たない。
 同様に自閉症児は、治療的介入と協働する治療過程が自分の中に本来備わっているという、安心できる認識がない。彼らの努力のすべては、彼らをくるしめていると思われるたくさんの欠点や傷を「覆うこと」か「くるむこと」(デイジーの表現を用いると)に向けられている。したがってこのような子どもは、身体表面の感覚経験と関連した、操作的で、身体を基盤にした回避行動や、うわべだけの模造というやり方で、おおかた例外なく生きているのである。彼らは、つかみどころがなく制御できない、自然で自発的な過程から、なんの安心感も引き出せない。
 このような子どもは、成長や治療という安心させる過程から切り離されているのはもちろんのこと、幻想、想像、記憶、内省的思考という安心させるが触れることのできないものからも、切り離されている。そのような子どものこれらの活動への潜在能力は、まだまだ未開発であり未使用なのである。そういうわけで、自閉症児と作業をする中で、気づかれていなかった潜在能力をふと見つけることがあるのである。
 
 アリアドネの自閉的な窮屈さが緩和されたので、彼女は他の安心感をあたえる生まれつきの潜在能力に気づいた。それは彼女の生物学的繁殖能力である。これの気づきは、永遠でも不滅でもないという彼女の苦痛を和らげた。以下のように、彼女は私がそれに気づくように手助けしたのであった。彼女は実験劇集団の上演の一つを見に行ったことがあった。『ハゲタカ文化』と題する劇は、彼女に感動を与えた。それは、ウミガメが産卵のために水中から海岸へと上がってくるが、卵は人間によってすぐさま破壊されてしまうというものであった。彼女は邪悪なコロシアムを通り抜けたときに、破壊の危機が迫ってい「卵」を守っていたことに気づいたのであった。
 自分の種を世代から世代へと伝えて、それである種の不死を達成するのに役立つ子孫を残すための彼女の自閉的略奪行為によって「破壊されて」しまった創造的能力であることにも気づく。私たちがこのことに徹底的に取り組んだことで、やっと彼女は私から離れられた。しかし彼女の自閉的傾向が和らぎ、そして彼女は、母親の身体や彼女自身の身体がなくなっても継続する創造的過程の一部であると認識することによって、彼女が安全を感じる、より信頼できる手段を編み出すまでは、私たちは作業を終えることができなかった。マリオン・ミルナーの言葉(Milner,1969)を借りると、分析家だけが「過程の奉仕者」なのではなく、患者もそうなのである。アリアドネは自分の人生を送れるようになりつつあり、それで以前は彼女が持っているとは気づかなかった能力である「安全のリズム」を発展させた。それは彼女のマニュアルや知的コントロールを超えたものであった。成長や治療のように、この潜在能力は「天賦のもの」であった。それが起こるように予め彼女が準備することもなく、それは起こったのであった。それは彼女のつまらない策略よりも、もっと大きな安全感を与えた。この創造的能力を彼女が自覚する可能性は、私たちの協働作業における重要な突破(ブレーク・スルー)の結果であり、それは次のように生じたのであった〜