うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

夜店とビアガーデンと、お盆の準備と、【そういう溺れてしまいそうな状況になったと感じると、目を閉じるというやり方でこの問題を解決しました】


 夜勤明け、体を追い込んでから(笑)外で昼食を食べてたら、柱にこんなポスターが貼ってありました。
夜店のスケジュールは知っていましたが、ビアガーデンもあるんですね!毎日、猛暑が続いているので、ちょっといいかもですが、土日は忙しい.....。


 朝、うたたねのタウパーがなくなったので、ジャスコに買いに行ったら、こんなのが下がっていました。

 お盆が来たら、あっという間にお正月.......。
本当に一年が経つのが早いですね......。


 何とか読書とギターは少ない時間でしたが、何とかこなしました(笑)






 アップは、名古屋行きの電車の中で読んでいた箇所です。

 人間の身体も複雑ですが、それに負けず劣らず、精神の方も複雑ですね.....。
ただ勉強するだけではなく、先人が残してくれたものを、自分たちの現場に活かせるように、応用が出来るようになるには、まだまだ勉強が必要ですね.....。
下記を読んでいてそう思いました。

自閉症児たちは、空間、時間、因果律といった観念を持つのが困難であり、またしばしばそれに抵抗するというのは、よく言われることです。私は、Tustin やMeltzer など、こうした困難を、子どもがその内的世界においての乳児的な自己と最初は母親対象との関係、その後は父親対象との関係を不十分にしか発達させられていないことで結びつける精神分析家たちに同意します。空間、時間、因果律についての十分な感覚には、二つの固定された準拠点という観念が含まれますし、これら二つは、「perfinkする」親対象と関係している「perfink する」自己という二つの大きな組織化原理から生じるように思われます。』


分裂の発達における諸段階――認知心理学者の見解
 Klein とBion は、健常児が思考をまとめ始める過程は情動によって生命を吹き込まれ、満たされることを教えてくれました。Bruner(1986) は、認知心理学者で、それほど情動に関する論考に関心をもっていたわけではありませんが、にも関わらず、健常児の発達において、協応(co-ordination )と呼ばれる、ある種の認知的な連携が生じる順序について、また最終的な統合に先行するように見える、不可欠な分化が段階をなして配列されていることについても、卓見を述べています。Bruner は、分裂といった精神分析の用語を使いませんが、「行動の単線化(one-trackedness of behavior)」と彼が呼ぶものがしっかりと確立されねばならず、そうして初めて、赤ん坊は、注意深く一連の段階を経て、複線化へと進んでいくのだと主張しています。Bruner は、生後数週間の間に赤ん坊がどのようにして吸うことと見ることにいう二つの活動を協応させることを学ぶか、その後、いかにして手を伸ばすことと掴むことを協応させることを学ぶか、そして、いかにして最終的に一連の行為を通して、意図性を維持することができるようになるかを記述しています。
 彼によると、吸うことと見ることとの関係は、その成長のなかで3つの段階を経るとされます。それは1)一方による他方の抑制です。ほとんどの場合、見ることが吸うことを抑制します。すなわち、新生児は関心をもっている対象を吸うと同時に見ることはできません。吸っている間は目を閉じがちです。生後3週から5週の新生児は、吸っている間も目をあけていますが、もし何かに視線を釘づけにしたり、何かを後追いしたりすると、吸うことは止まります。2)生後9週から13週までに、新しい発達が生じます。それは、吸うことと見ることが順に続くということであり、そうした交替によって組織化されるということです。いまや子どもは、乳房を脇目もふらず吸い。吸うのをやめている間に見るのです。3)第3段階を、Bruner は待機状態(place holding )と呼んでいます。二つの行為は持続し、一方はすぐに元に戻ることができるものの抑えられた形をとり、他方は十全に機能するという形になります。Bruner は、たいていの場合、赤ん坊は4カ月までに吸うことと見ることを同時にできるようになるようだと述べています。しかしながら、Bruner の説明によれば、赤ん坊が見ながら吸い続けているように見えるものの、その場合は、実際に吸っているのではなく、乳房に口をくっつけているだけで乳を飲んでいません。「現在進行中の行為をある程度維持しながら、括弧つきで別の行為を実行することで、そのもともとの行為を再開させられることになっていることが思い起こされます」(1968:18-24)。したがって、赤ん坊は「そちらに完全に気をとられることなく」、ついに栄養をもらうための吸乳へと戻ることができるのです(p.42)。それはあたかも。短い会話をする間、本のページのある行を指で押さえておくようなものです。


〜Bruner とBower の記述は、赤ん坊や母親やその文脈にある、非常に多くの情動的な要因を考慮していません。たとえば、赤ん坊は顔を向けて、応答してくれる母親の顔を見るのかで無反応な顔を見るのか、あるいは誰か他の人の顔を見るのか、あるいはようやく母乳の飲んでそこそこ満足する体験をする前に気が散らされているのか、といったことを見ていくことが大事かもしれないのです。しかし、抑制が交替に先立ち、交替が成立して初めて待機状態が可能になり、待機状態をともなって初めて真の協応が可能になるというBruner の示唆は、たえず開かれつつある体験の領域に人間が集中することをできる条件のいくらかについて、重要なことを教えてくれています。それは、自我欠損や思考障害、あるいはむしろ思考の欠陥をともなう子どもたちとの仕事に基づく、私自身の臨床的印象のいくらかに光を投げ掛けてくれます。遅きに失しましたが、ロビーにとって、過剰に興奮するような観念を忘れられるようになり、刺激の強すぎる光景を無視することができるようになることがいかに重要かということを認識したことを思い出します。たとえば、彼は他の人の目を見ただけで、精神病状態へとたやすく引き込まれ、恍惚のなかに溺れてしまっているかのように見えました。ついに彼がより注意を喚起された、しかし落ち着いた類の接触を求めた時、彼はBruner の赤ん坊と同じように、そういう溺れてしまいそうな状況になったと感じると、目を閉じるというやり方でこの問題を解決しました。のちに、彼は「自分の目を引き離さないと」いけなかったと言いました。その時までに、精神心理的な距離を保つことが可能になり、自分が見つめている対象は向こうも見つめているのだと感じられるようになりました。


自閉症児たちは、空間、時間、因果律といった観念を持つのが困難であり、またしばしばそれに抵抗するというのは、よく言われることです。私は、Tustin やMeltzer など、こうした困難を、子どもがその内的世界においての乳児的な自己と最初は母親対象との関係、その後は父親対象との関係を不十分にしか発達させられていないことで結びつける精神分析家たちに同意します。空間、時間、因果律についての十分な感覚には、二つの固定された準拠点という観念が含まれますし、これら二つは、「perfinkする」親対象と関係している「perfink する」自己という二つの大きな組織化原理から生じるように思われます。この二つあるという感覚(twoness)(そして、確かに、これに続く三つある(threeness)というエディプス的な感覚)は、急がせて得られるようなものではありません。子どもが、この二つあるということを理解できないのは、子どもとそれに抵抗しているということではないかもしれません。子どもは、たとえば、探索するような形のシンプルな解釈すらも理解できないのかもしれないのです。なぜなら、こうした解釈は同時に心に二つの考えを保持することを含んでいるからです。「なぜ」とか「なぜならば」といった解釈は、因果律の理解を含んでいます。ここでも、「なぜ」には、体験が「どのようなものか」というのが先立たねばならないかもしれません。説明を説明として受け入れるためには、その説明が何についてのものであるのかをまず理解せねばならないのです。〜