うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

あいちアールブリュットと、『休みたいから診断書をください』と、【たとえばまだ経験の少ない治療者が、自分のすべてをかけて治療にあたっている間は、技法の稚拙さにもかかわらず、まず間違いなく患者の症状は落ち着いています。】


 今日は、夜勤明けでしたが、あいちアールブリュットを、見に行くのは、今日しかないと、親分から連絡があり(笑)、名古屋まで行って来ました!
 自分たちの一押しのKさんの『あめばあむほど』が、受賞すると思っていましたが、残念ながら受賞しませんでしたので、ちょっとショックでした。周囲を見渡しても、この完成度はないのになぁ〜と思いました。



 この一角だけ、アトリエ・カーグの作家たちが固まっていました。
こばちゃんの、作品が受賞していました。
 この一角の、アトリエ・カーグの作品は、どれも素晴らしいですね!
親分は、直樹君の、電話が受賞すると思っていたようでした。
 優子ちゃんと、おかもっちゃんは、前年度受賞したので、選ばれなかったのでしょうか?
どちらも秀逸です。

 晴君は、久し振りに本気を出してきたので、これからが楽しみです。
一番最近の車の作品は、凄かった時の彼に近づいて来ています。

 あまのっちは、今回は親分がまとめました。

 ゆうちゃんのは、会場におられた方々が、かわいいと言ってくれていました。
盆栽みたいですが、多肉植物だったそうです。

 まつおさんは、前回、ティッシュボックスに、作品が採用されて、今回の会場にもそのティッシュが置いてありました。

 全体的に、みなさん本気出してきたな(笑)、って感じがしました。
今回出品されなかった方々も、素敵な作品がありますので、徐々に皆様の目に触れられるようにしていきたいと思っています。






 帰宅して、ネットのニュースを開いたら、こんなニュースがありました。
みなさん、今の状態から逃げ出したい一心で、下記のような、感じになって行かれますが、本当に踏ん張って乗り越えたからこそ見える景色も沢山あるので、そうしないと見えない景色もありますので、頑張れるまで、取り敢えずは頑張ってみたらどうでしょうか?
 というと、親分はまた、あんただからできるとか言い出しますが(笑)、後々考えたら、あの時に頑張っておけばよかったと思うのも、自分に腹が立つので(笑)、取り敢えずはやってみます。失敗したらまたやり直せばいいし、文句を言ってくる方々は、ほとんど自分で一からものを作りだしたことが無い方々が多いので、全く気にすることはないと思います。
 本当に病気になったら、いち早く良い医師を見つけて受診するべきだと思います。



「休みたいから診断書をください」 --現役精神科医うつ病休職」の告発2017年7月16日(日)07時15分

印南敦史(作家、書評家)


https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/07/---7.php



最近、診察していてとくに強く感じることがあります。それは「会社に行くのがしんどくなった。上司に話したら『それなら病院に行って診断書をもらってこい』と言われた。休めるように診断書を書いてほしい」といった患者がとみに多くなっていることです。(中略)
 聞いてみると、「職場でストレスがある」と言います。医師から見ると、それは仕事をする以上はあたりまえのもので、それほどのストレスとも感じられない場合が多い。しかし本人は、その影響として抑うつ(落ち込んだ気持ち)や不安、イライラなどを強く訴え、「このような状態では仕事ができそうもない。休みたいので診断書を書いてほしい」と希望します。(26〜27ページより)


「ストレスによって起こる」と因果関係をはっきり説明できるものは、うつ病ではありません。それは抑うつ反応です。 うつ病は、一見ストレスによって起こっているように見え、または本人がそのように感じていても、専門医が診ればストレスでは説明できない点が必ずあります。ストレスは、発症のきっかけや悪化要因として関係しているにすぎません。逆に言えば、ストレスで説明がつかない点があることが、うつ病であるための条件(必要条件)なのです。 抑うつ反応は了解可能で、うつ病は了解不能であること――この点が最も重要な鑑別点です。 抑うつ反応は、誰もが時と場合によって陥る、正常な反応です。(中略)「こんなにひどいストレスが続いたら誰でもなる」のは、うつ病ではなく、抑うつ反応なのです。(96〜97ページより)

病気は「襲われる」もしくは「蒙(こうむ)る」ものです。主体はそれに対して受身です。襲われた(蒙った)主体は、助けを求めるしかありません。そして、病気が「治る」までは、「病人」という立場(「病者役割」)を認められ、従って必要な休養をとる権利を認められるべきです。 これに対して苦悩は、「味わう」もしくは「巻き込まれる」ものです。主体はその主人です。味わっている(巻き込まれている)主体は、助けを求めることもできるし、求めないこともできます。それは主体の選択です。それに応じて必要な援助を受けることができますが、それを使いながら苦悩を軽減するのは、主体の責任に属することです。(166ページより)








 お天気は、最高に良かったのですが、少しハードな夜勤だったので(笑)、電車の中で本を読もうとしましたが、眠気が強くうとうとしている間に、名古屋に着き、帰宅していました(笑)。


 アップはもう少しだけ、続きです!

 色々、現場と比較して書きたいこともありますが、今日はもう寝ます!




9.境界例(p.106-31)
〜Stolorowによれば境界例の症状は、「間主観的な場における現象」として理解されるべきであるといいます。つまり、境界例の患者の「情緒的な相矛盾する体験の統合不全(発達停止としての『分裂』があり)」、「融和性を欠き、脆弱で、不安定な」、「太古的自己対象による受け入れを希求する」自己が、太古的な自己対象とのつながりを断たれたと感じる時見せるのが、いわゆる境界例の症状です。 この「自己対象とのつながりを断たれた」という感じは、患者の側の病理の重さと、治療者を含めた患者の周囲の人々が果たす自己対象機能の安定性とのバランスで決まります。たとえば、境界例同士が結婚し、互いに太古的自己対象機能を果たし合っている間は、その関係がいかに病的にみえようとも、患者は安定しています。症状が出てくるのは、自己対象を実際に失うか、失ったと感じた場合です。同じことが患者と治療者との関係についてもいえる。たとえばまだ経験の少ない治療者が、自分のすべてをかけて治療にあたっている間は、技法の稚拙さにもかかわらず、まず間違いなく患者の症状は落ち着いています。しかし、時間の流れの中で、少しも治療的効果が上がらないまま、治療者の中にわずかでも苛立ちが芽生え始める時、患者はいわゆる境界例の症状をもろに出してきます。 とはいえStolorowが、境界例を医原病であるといっているわけではありません。すでに述べたように境界例の症状は、患者の病理の重症度(自己愛障害よりはずっと原始的、脆弱、不安定)と、治療者が自己対象として、どこまで患者を理解できるかのバランスであり、そのバランスが崩れない限り、境界例の患者も、自己愛障害と似たような形で治療可能であるといいます。