うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

フィンランドの陶芸と、【これに対し自己心理学を良く理解している分析医は、病原的なエディプス・コンプレックスが、エディプス期の自己ー自己対象関係の障害に埋め込まれており、肉欲と敵意の底には、抑うつとび慢性の自己愛的憤怒の層があるという事実を受け入れている。】



先日、東京に行った時に、ついでに見せて頂いた、フィンランドの陶芸展です。
最後の部屋だけ、撮影可能でしたので、写させて頂きました。
 目黒区立美術館でしたが、過去の図録を見ていると、京都時代にお世話になった方々のお名前があり、しばらく真剣に見入っていましたが、京都を出て、もっともっと素敵な、色んなものを見せて頂いたので、もう自分の中では終わった世界の様な気がしてしまいました。
 その近くのカフェに入ると、沢山のクリエイターらしき方々が、交流しており、自分はこんな田舎にいていいのかな?って少し焦ったようになりました。頭の良さそうな、方々の中に自分みたいなアホが(笑)入れるのか?と思うと(笑)少しは気が楽にはなりましたが、周囲が、そのままで本当にいいのか?と最近特に問い詰めて来るので(笑)、重たい腰をそろそろ上げないといけないのかな?とも思い始めました。周囲が期待してくれているのは、アートですが、自分の中でのアイデンティティは、音楽なので個人的には音楽で何かを開きたいと思っています。
 他人の褌で相撲を取るのは嫌なので、障がい者アート等で、自分の名を上げる気もなく、アート系は、親分が主体となってやっていければ良いし、カーグの作家さんたちや、親分のためなら、今まで自分が磨き、築いてきた技術は惜しみなく出させて頂こうと思ってもいます。


 最近、楽器屋さんでギターを弾かせて頂くと、店員さんが真剣に聞いてくれるので、ちょっと自信にもなっています。(笑)
良いギターは買えませんが、今あるギターは、全て弾きこんでいるので、鳴りが非常によくなってきました!


 田舎にいると、北海道でもそうでしたが、急に都会に行きたくなることがあります。







 Amazonさんなどのおかげで、田舎にいても、欲しい本が直ぐに読む事ができます。今日も早めに出て(行ったらやすみでしたがw)、ファミマに行きましたが、残ったお弁当などを、ゴミ収集車に大量に捨てていて、イートインが使えなかったので、マックでオレンジジュースを飲みながら読みました(笑)。

 現場に行ってから、自分のシフトは古い物だと分かりましたが、行ったら皆さん何も言わずに、こき使われました(笑)。


 本は、既に読み終わっていますが、丸田先生の本からです。
もう一度基礎から(今読んでいる本の方がもっと基礎から教えて下さっています)、しっかりと勉強できる本です。
 学派に拘らなくて、非常に読みやすい本でした。









第1章 エディプス理論の大前提とその再検討――Kohutの理解とその意義

2.内的性欲動と性的誘惑説

 ここでKohutが主張するのは、内因性欲動説から性的誘惑説へという、因果関係の逆転だけではない。その逆転は同時に、エディプス期の発達促進的側面、そしてエディプス期における実際の対人関係の強調でもある。

 「古典的転移神経症に関する伝統的なアプローチと、自己心理学を良く理解しているself psychologically informed治療アプローチとの違いは、基本的病因論の違いに根差している。古典的な立場に立てば、衝動、願望、そして欲動にまつわる患者の体験に到達できた時、つまり、患者が自分の太古的な肉欲と敵意を意識した時、治療は再深部に達したことになる。これに対し自己心理学を良く理解している分析医は、病原的なエディプス・コンプレックスが、エディプス期の自己ー自己対象関係の障害に埋め込まれており、肉欲と敵意の底には、抑うつとび慢性の自己愛的憤怒の層があるという事実を受け入れている。したがって、(自己心理学を良く理解している分析医による)分析プロセスは、エディプス葛藤だけを扱うのではなく……その根底にある抑うつや、エディプス期自己対象が不全であったという認識に焦点を当てる」(p.5)〜







3,エディプス葛藤からのプリエディパルな問題の削除

 いずれにしても、エディプスその人でさえ、プリエディパルな問題を背景としてエディプス葛藤を起こしたという物語の部分が『最近発掘』されたのは、治療の対象が神経症症状というよりは性格障害となって治療が長期化し、プリエディパルな問題を避けて通れなくなってからのことである。そうした流れの中で、「健全な親のもとに育った健全な小児は、歓喜をもって、エディプス期に突入する」(p.14)と語るKohutは、2つのことを主張している。 1つは、エディプス期における健全な発達を準備する『プリエディパルな発育段階の重要性』であり、もう1つは、口唇期、肛門期、エディプス期を通じて乳幼児の自己対象としてある『両親の在り方beingの重要性』である。つまり、エディプス葛藤を含めて自己の病理を生むのは、一時的な心的外傷であるというより、親の生き方が醸し出し、その繰り返しのプリエディプス期そしてエディプス期を通じて延々と続く『心理的酸素欠乏状態』である。 こうしたプリエディパルな要素の強調は、現代の分析理論にほぼ共通して見られるものである。〜