夜勤明けと、嵐の前の静けさ?【母親が、排便という贈り物を誇りをもって受けるか、あるいは逆に、拒絶するか興味を持たなかった場合、その母親は単に欲動に反応しているばかりではない。その子の、形成途上にあるforming自己に対しても反応しているのである。】
夜勤明け、ホットサンドを作ってから、皆さんを起こしに回りました(笑)
処置をしないといけない方を先に、いつも起こしに行って、処置をしてから、ご自身で起床できない方々を起こしに行きます。
今日は、早く仕事や朝食が済んだので、皆さんが掃除を手伝ってくれ助かりました。
洗濯も、日勤の方々が来るまでに終わり、出勤まで、皆さんとほっこりしていました(笑)。
夕方、ひーひー王子の散髪が終わったので、引き取りに行ってくれと、親分の指示で行って来ました。うたたねに寄ったついでに、久し振りに、うたたねの周囲を散歩してきました。
嵐の前の静けさというところでしょうか? 台風の状況を見て、管理者さんと話し合い、明日は皆さん休む事を、早々と決定しました。
ご父兄の方々も異論ないほど、荒れそうですね!
被害が出なければいいなと、ただただ祈るしか術はありません。
本は、夜勤明けの帰宅前に、ファミマで読みました。もう少しです。
難しい個所は、何とか自分なりに(笑)理解したつもりですが、本当に合っているかは分かりません(笑)。
下記も、現場において、自分たちが常に頭の中に入れておかなければいけない事だと思います。
『母親が、排便という贈り物を誇りをもって受けるか、あるいは逆に、拒絶するか興味を持たなかった場合、その母親は単に欲動に反応しているばかりではない。その子の、形成途上にあるforming自己に対しても反応しているのである。』
〜Kohutによれば、心理的な体験の原初的形態primal configurationは、自己と自己−対象の関係の体験であり、欲動の体験はその構成部分に過ぎないといいます。ですから、口唇共感、肛門期、性器期における幼児性欲も、自己の体験という枠組みの中で初めて、意味をもってきます。そうした文脈でKohutは、肛門期について次のように述べています。
「母親が、排便という贈り物を誇りをもって受けるか、あるいは逆に、拒絶するか興味を持たなかった場合、その母親は単に欲動に反応しているばかりではない。その子の、形成途上にあるforming自己に対しても反応しているのである」(p.75)。
つまり両親の態度を自己は、欲動に対する反応としてばかりでなく、自己全体の受け入れないしは拒絶としても体験するのです。ですから、
「肛門期への固着はもちろん存在するが、その固着は、自己がぼろぼろで空虚になってしまったと感じた小児が、身体−自己body−selfの断片の刺激により、安心できる快楽を得ようとする試みであるという発生論的再構成に基づいた初めて、本当に意義あるものとなる」(p.76)。
口唇期についても同じです。
「自己心理学的な観点から見れば、初めから小児は、食物を与えてくれる自己−対象の必要を主張している。……食物それ自体ではなく、共感的に食物を与えてもらうことが必要なのである…もしこのニードが満たされないと……適切な応対を享受する健全な自己の、歓喜に満ちた体験が崩壊し、小児は、口唇刺激による快楽希求という、体験の断片へと退去する」(p.81)。
ですから、発達上きわめて大切なこれらの時期を包括的に理解しようとすれば、当然自己心理学に必要になってくる。そうKohutは主張します。
「健全なプライドと健全なアサーティブネスassertiveness。それらは健全で基本的な体験の崩壊産物である恥や怒りなどに比べ、欲動心理学的な用語では定式化しにくい」(p.77)。
そして、
「健康か病気にかかわらず、その心理的現象の深層心理学的説明には、2つのアプローチが必要である。その2つとは、葛藤心理学的アプローチと自己心理学的アプローチである」(p.78)。(蛇足:この相補性の主張、つまり、自己心理学は、葛藤心理学と共存共栄するもので、それに取って代わるものではないという主張は、すぐ4ページ後の記載で怪しくなってきます。つまり、「欲動と自我の異常は、自己のこの中心的欠損の症候学的結末なのである」(p.82)。この記載に、自己ある障害の理論としての自己心理学をもって、神経症理論である葛藤心理学をも説明しようとしていると、野心を読む人があってもおかしくはありません。)