うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

まだ寝ません!(笑)と、【ここで自己が生きるとは、どんなに病んだ中核自己の残渣でもいいから保持することであり、自己が死ぬとは、他者の人格による乗っ取りを許すしまうことです】


 20時半も過ぎて、そろそろ寝る準備を遅番さんとしようとしたら、「まだ寝ません!」とお三方が意思表示されました。
もう床に入ってゆったりされている方もおられますが(笑)週末ですものね。一週間頑張って働かれたので、金曜日と土曜日の夜は、嬉しいですよね!
 皆さんが大好きなうたばんもしているし!

 今日は、夜勤なので、朝ジムが開くまで、ファミマで本を読み、復習していました(笑)。
ジムでは、ストレッチを入念にしましたが、肩と首のこりは思ったほど改善されず、まあ、時間があれば読書と、楽譜を見てギターの練習を欠かさないので、目や首に負担がかかりますね.......。
 動きの中で、やっとアレクサンダー・テクニークで教えて頂いていることが実践できるようになってきたので、全体的に観れば、首は大分改善されていますが、元が酷かったので、中々のもんです(笑)。




 昼ご飯を頂きながらも復習していて、空いた時間にギターをと思っていましたが、仕事の話などで、20分くらいしか弾けませんでした。
今は、プロの方が演奏会などでやっている楽譜を見ながらの練習なので、本と同じで、中々前に進みません(笑)。全体をつまずきながらも、途中で辞めずに取り敢えずは通すように練習して、一番つまる箇所を重点的に繰り返せば、時間はかかりますが、弾ける様になってきます。
 勉強もギターもやった分しか、力が付かないし、毎日やらないと直ぐに使い物にならなくなります。ので、意地でも(笑)、読書とギターは死ぬまで続けるつもりです(笑)。せっかく身に付いたのに、もったいないですね(笑)。




  下記は、自己心理学では、帰納法よりも、演繹法を選択すると言うことでしょうか?
まあ、細かいことばかり見ていても、らちがあかない時の方が多いですからね.....。

  『ごく稀な例を除けば、全体像の意味と意義を説明するのは部分でなく、逆に、全体像がその部分の意味と意義を説明するのである。あるいは、少なくとも、部分の持つ意味と意義を掌握するには、全体像を理解することのほうが役に立つことが多く、その逆ではない。』


  下記は、上記のホームの方々とだぶってきました。いつも意思表示が楽にできる環境でありたいと思っています。
 『ここで自己が生きるとは、どんなに病んだ中核自己の残渣でもいいから保持することであり、自己が死ぬとは、他者の人格による乗っ取りを許すしまうことです。』

 そして、下記で〆ています。自分もそう思います!
 『私の個人的な好みを言えば、患者が『防衛的であること』という表現の方が好ましい。そして、防衛的な態度を、適応的であり、かつまた心理的に価値あるものと理解し、『抵抗』としてはとらえないことである』






〜ではKohutは、防衛と抵抗をどう理解するのでしょうか。
 それを理解するにはまずKohutの精神分析的治療に対する姿勢から見ていくのがよさそうです。
 「ごく稀な例を除けば、全体像の意味と意義を説明するのは部分でなく、逆に、全体像がその部分の意味と意義を説明するのである。あるいは、少なくとも、部分の持っ意味と意義を掌握するには、全体像を理解することのほうが役に立つことが多く、その逆ではない」(p.127)。
 「知るか知らずにおくかto know or not know,それが伝統的精神分析が吟味する問題である……(これに対し自己心理学での問題は)……(自己が)生きるか死ぬかto be or not beである」(p.142)。

 ここで自己が生きるとは、どんなに病んだ中核自己の残渣でもいいから保持することであり、自己が死ぬとは、他者の人格による乗っ取りを許すしまうことです(p.142)。

 自己心理学的知識のある分析医は……『抵抗』を……健全な心的活動として解釈しなくてはならない。なぜなら、それは、被分析者の自己の将来における成長を保護するものだからである」(p.148)。

 この文脈でKohutは、防衛と抵抗という用語に疑問を投げかけます
 「私の個人的な好みを言えば、患者が『防衛的であること』という表現の方が好ましい。そして、防衛的な態度を、適応的であり、かつまた心理的に価値あるものと理解し、『抵抗』としてはとらえないことである」(p.114)。