うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日の日中と、【共感不全が「これでもか、これでもか」と繰り返されて初めて、自己の欠陥へと結び付いてゆくのです。親のあり方beingが親の行為doingより重要なのは、まさにその理由によります。】


 今日は、帰宅されない方は、ヘルパーさんと外出されるので、みなさん行く前からわくわく、うきうきでした!
日中は、ショートステイと日中一時の方のみでした。

 明日は、カーグとバンドの日なので、ホームに戻られた方もおられ、ショートの方々と楽しそうに過ごされていました。




 本は、体調の悪い職員が来れるのか?来れないのか?よくわからなかったので、ファミマで本を読みながら(笑)待機しながら読みました。集中出来なくて(笑)1ページくらいしか進みませんでした。結局大丈夫だったので、日中の方のお迎えだけして帰宅しました。
 遅番がいなかったり、食事の方が遅れたりしたので(今日は色々ありましたw)、夕方に入り、皆さんと一緒にお寿司を買いに行き、一緒によばれたので、仕事をさせて頂いてから帰宅しました。本当は休みでしたが(笑)、大人の事情で(笑)現場に入りました(笑)。
 夜勤は、きちんと仕事が出来る方なので、心配もなく19時には帰宅できました。お風呂も日勤の男性職員さんが男子は全員入れてくれていたので、掃除くらいでしたが。

 考えてみたら、今日から9月でしたね(笑)。何か最近曜日だけでなく、日にちまで、良く考えないと分からなくなっています(笑)。





 自分たちの仕事も、その方の《バッファー(緩衝)》になれたら、その方がもう少し生き易くなれるのでしょうか?
もしそうなら、どうしたらその方の《バッファー(緩衝)》になれるのか?真剣に考えてみます。

 『つまり、母親の映し出しの不全により、太古的な誇大感と自己顕示欲の中和が進行せず、自己に一次的な欠損(融合性の欠如)を生じていても、父親の理想化がバッファー(緩衝)となって補正的構造を作れば、一次的な構造の欠損は完全には修復されなくても、『機能を果たしている自己functioning self』の確立は可能です。』  


 

 ここで言う共感不全とは、1〜2回の外傷的な体験を指しているのではありません。『微視的内在化の集まりが、微視的構造の集まりである自己を形成していく』という考え方からも明らかなように、共感不全が「これでもか、これでもか」と繰り返されて初めて、自己の欠陥へと結び付いてゆくのです。親のあり方beingが親の行為doingより重要なのは、まさにその理由によります(第7章、生気情動参照)。 こうして自己の一次的欠損が生じますが、その欠損はまだ、補正的構造によって修復される可能性を秘めています。つまり、母親の映し出しの不全により、太古的な誇大感と自己顕示欲の中和が進行せず、自己に一次的な欠損(融合性の欠如)を生じていても、父親の理想化がバッファー(緩衝)となって補正的構造を作れば、一次的な構造の欠損は完全には修復されなくても、『機能を果たしている自己functioning self』の確立は可能です。
同様なことが、治療の終結にも当てはまります。一次的欠損が治療的に完全に修復されなくても、変容性内在化による補正的構造の修復されより、補正的構造が機能的に安定すれば、治療は終結したと言えるのです。 「被分析者の自己が安定し、自己−対象の喪失に対して自己が、断片化、重篤な脆弱、あるいはコントロールの効かない憤怒などをもって反応することを止めた時、自己愛障害の分析は終結段階入ったと言える」(p.138)。 Kohutが、 「患者を治癒させるのは洞察ではない」(p.31) と断言するのは、まさにこの文脈においてです。なぜなら、 「ワーキング・スルーによって、構造に本質的な変形が引き起こされるが、それは、……昔の体験が成熟した心によって繰り返し体験し直されるという事実によってもたらされる、徐々に進む内在化の結果である」(p.30)からです。 こうして治癒終結を迎えた患者の自己には、自己与えエネルギーを創造的に発露する構造が出来上がっていますが 「その業績の社会的価値がいかに限られていようと、また、その創造性が他人にとっていかに無価値に見えようと、自己愛エネルギーは創造的表現へと向かって決して途絶えることがない」(p.54)。