うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

久し振りの投げ入れと、ねこさんが紅茶を......と、【患者によっては、それまで前自省的であったオーガナイジング・プリンシプルを治療者がよって言葉化してもらうだけで、人生の大きな転機を迎える場合がある。】


 毎日、暑いですが、久し振りに投げ入れました(笑)、関係ないか(笑)
花は、直ぐに萎れるので、まだやめておきます。ススキでも入れようかと思いましたが、かわいいので(笑)、そのままにしておきました。




 さっき、マッサージ器をやっていて、横に飲みかけの紅茶を置いていたら、ねこさんになめられてしまいました(笑)。


 今日は、休みだったので、朝はゆっくり、ファミマで(笑)コーヒーを飲みながら、本を読みましたが、難しくなってから、中々進みません(笑)。頑張って今月中には読み終えようと思っています。焦ってはいません(笑)。


 今日は、隣市の社協さんが、うたたねの見学に来てくれたようで、主任さんが対応してくれました。
認めてくれる方は認めてくれるのですが(笑)。まあ、それも縁の問題なので、こちらも特に焦ってはいません。
 リピート率は高いので、職員さん達には、本当に感謝しています。

 自分は、昼前からジムで体を追い込んでいました(笑)。時間があったので、ストッレッチを3周してから、筋トレとランニングマシーンで、ほぼ30分、全力で(笑)走りました。もう1本走ろうかと思いましたが、待っておられる方がいたので、遠慮して止めときました。

 帰宅してから、ブライアン・セッツアーのギターをアコースティックギターで、久し振りに弾いてみました。
昨夜、うたたねで、ロカビリー的なリフをコードを混ぜて弾いたので(笑)、セッツアー先生を思い出しました。やっぱりカッコイイですね!
 ゆっくりさせて頂きました。




 下記を繰り返さないためにも、だめなことはだめと、繰り返し、繰り返し、反復してワークスルーしていかないといけない時があります。
 『自省と、自分の、そして相手のオーガナイジング・プリンシプルを十分理解していたつもりでも、それでも前自省的な部分がしっかりと残っており、パターン化された流れを生み、いつもと同じ「意味」(「結局彼は私を理解していない」)を付与してしまう。』


 認知行動療法ではなく、行動療法的なオペラント化も、障がいをお持ちの方々には、時間が必要な時があります。
短期間で修正・修復が出来る方は、おそらく重度ではありません。本当に深い所に到達させるためには、時間が必要ですし、魔法なんてありません。丸田先生が書かれているように、その人の人柄(知識も含めて)によるところが大きいのかも知れませんが......。
『これに対し、大部分の患者は、認知行動療法など、短期の治療で得られるレベルの理解では、オーガナイジング・プリンシプルの前自省的な部分をあまりに多く残すため、治療的変化が期待治療的変化が期待できないのである。』 

〜オーガナイジング・プリンシプルを巡りもう1つ説明が必要なのは、「オーガナイジング・プリンシプルは前自省的である」の「前自省的prereflective」という言葉である。これは文字通り、「自分の内面を振り返る以前の」、あるいは、「これまで省みることもなかった」を意味する。つまり、前自省的オーガナイジング・プリンシプルは、これまで意識に上がったことがない(省みたことがない)という意味において無意識的であり、これまでの精神分析理論で言う「力動的無意識」のように、葛藤のため、抑圧されている無意識とは区別される。(ただこの区別は概念上の区別であって、実際の臨床てその境界を論じるのはほぼ不可能に近い。)

 ここで当然疑問が湧いてくる。この項の冒頭で述べた「親密な関係になると自分のニーズはいつも後回しになる」、「自分を出せば必ず嫌われる」といったオーガナイジング・プリンシプルは、患者が治療を受ける前からでも口にするようなものであることを考えると、それを前自省的といった大げさな言い方で表現する必要はないのではないか?という疑問である。この疑問に対しては、2つの答えが考えられる。
 その第1は、「大部分の人にとって、そうしたオーガナイジング・プリンシプルを自省できるのは心理的な洞察がある人であるという定型的な答えである。

第2の、もう少し立ち入った考え方は、「オーガナイジング・プリンシプルの自省には無数のレベルがある」とするものである。例えば親子関係、夫婦関係を考えると、それぞれの親子、夫婦の葛藤にはほば決まったパターンがあり、いったんそれが動き出すと、両者がそれぞれの自省をもとにその流れを止めようとしてもまず止まらない。凍った坂道を滑り落ちるがごとく、お決まりのコースを辿るのが常である。自省と、自分の、そして相手のオーガナイジング・プリンシプルを十分理解していたつもりでも、それでも前自省的な部分がしっかりと残っており、パターン化された流れを生み、いつもと同じ「意味」(「結局彼は私を理解していない」)を付与してしまう。 こう考えると、一回だけの面接が時として劇的な治療効果を生む事実や、なぜ認知療法では十分でなく、長期的な精神療法を必要とする場合が多いのかが理解しやすくなる。患者によっては、それまで前自省的であったオーガナイジング・プリンシプルを治療者がよって言葉化してもらうだけで、人生の大きな転機を迎える場合がある。これに対し、大部分の患者は、認知行動療法など、短期の治療で得られるレベルの理解では、オーガナイジング・プリンシプルの前自省的な部分をあまりに多く残すため、治療的変化が期待治療的変化が期待できないのである。