うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

夏枯れと、【また実際、間主観性理論の強調点は、これまでネガティブな扱いを受けてきたこの「主観的」な部分にある。】


 毎日続く酷暑......。
皆さん、元気に過ごされているのが、逆に不思議になって来ました。
 秋風が吹くころに、どっと夏の疲れが出ない事を祈りながら、日々送らせて頂いています。
春や夏のように暖かい時期に、冬に痛む箇所をケアしておけ!と中医学では言いますが、こんなに暑いと、そんな気も失せてしまいます.....。
 槿を投げ入れたいと思っていますが、暑さが続いていて、花びらが内側に巻き込んでいる姿を見てしまうと、頂く気にもなりません。
玄関は、既に夏枯れ状態です。


 昨夜、珍しく、たかちゃんがギターを弾いていました!
いつもみんなが、楽しそうにしているので、気にはなっていたのでしょうね!
 今度は、みんなで楽しみましょう!
 考えたら、明日は、カーグとバンドの日でした!
朝、現場に着いて、自転車を置いていたら、たかちゃんが、明日、カーグとバンドに行くでね!って言ってくれました。
 最近、あまりエレキに触っていないので、今晩はエレキを弾きまくります!

 今日は、一日事務仕事の時間を頂いたので、一気に片付きました!




 本は、早めに出て、得意のファミマで読みました。
今読んでいる方が、コフート入門書なので、こちらを先に読めば、今アップさせて頂いている本も、より理解できたかも知れませんね。

 少し、間主観性理論の基礎が続きます。




3,間主観性理論におけるいくつかの概念について1)主観と主体  間主観的の「主観的」の部分の原語はsubjectiveである。このsubjectiveという英語は、文脈によって「主観的」とも、「主体的」とも訳される。私の理解によれば、明治の初め、英語が入ってきた際、subjectiveの訳語も、ご多分に漏れず、日常語的な感性というより学問的用語としての厳密さという観点から翻訳されたため、文脈により、主観的ないしは主体的と使い分けられることになった。ここでやっかいなのは、自己体験selfーexperience(自分をめぐる体験)に強調点をおく間主観性理論が、intersubjectiveのsubjectiveを、体験に卑近な形で、つまり、日常用語に近い形で用いている点である。      その結果、subjectiveという英語が、「主観的」か「主体的」かと言う、「あれかこれか」ではなく、「主観的」と「主体的」の「あれもこれも」意味することになった。  さらに問題を複雑にしているのは、訳語である主観的と主体的とでは、その意味するところが微妙に、しかし決定的に違う点である。例えば「君は主観的だ」と言うのと「君は主体的だ」というのでは、意味が全然違う。前者は通常、ネガティブな意味で使われるのに対し、後者は非常にポジティブな響きがある。その延長で、「主体性を持て」とは云っても「主観性を持て」とは言わない。 もう1つ考慮に容れなくてはならないのは、subjectiveが、objectiveと対の概念としてあることである。Objectiveを客観的と訳す限り、その対の概念は主観的になる。また実際、間主観性理論の強調点は、これまでネガティブな扱いを受けてきたこの「主観的」な部分にある。
 というわけで、intersubjectiveの訳語として「間主観的」を用いているが、その「主観的」には、「主体的」というニュアンスもこめられていることを念頭におけば、さらに理解がしやすくなるかもしれない。