うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

アトリエ・カーグと、バンドクラブと、【したがって、生まれたばかりの赤ん坊と母親との間にも間主観性が存在する。】


今日は、アトリエ・カーグとバンドの日でした!
自分は、湖西まで送迎に行ったり、入浴介助などで、カーグに入ったのが、12時前でした。
 親分はいつも余裕がないので......、写真が全くありませんでした....。
慌てて、乾かしている作品を写させて頂きました。全部は写せなかったですが、これだけでもステキです!


 お昼を皆さんと頂き、直ぐにバンドの機材を入れ込んで、少しバタバタ(笑)しました。
岡もっチャンがPAの準備を全部やってくれたので、本当に助かりました!
 ちかちゃんの、ブスール・ハープは、本当にかっき〜ですよ!もう少ししたらきっと本物になります。

 今日は、まあちゃんが初参加!マイクがなくても、しっかり音が出ていました!
今度は、岡もちゃんに、マイクを置いていただきますね!




 まあちゃん始め、皆さんのりのりでしたが、利恵さんは普段通りリズム感ばっちり!拓ちゃんは元気に弾き続けています。よく飽きないなと思いますが、本当に好きなのでしょうね!

 ギターは、いつもの335は、朝出る前に、福山雅治が、甲子園の曲を作って歌っている映像が流れて同じ色の335を持っていたので、真似したと思われるのがしゃくなので(笑)グレッチを持っていきました(笑)
 まあ、こちらのほうが、アコースティックぽくて良かったかもですね。自分のギターは、自分と同じで、歳をとっているので、時々メンテナンスをしないといけません。余裕ができたら、このグレッチをメンテナンスに出したいのですが、今年は予算がないので、来年以降ですね.....。





 本は、早目に機材満載の(笑)車を置きに行って、マックで結構読みました。
読めば読むほど、自分の至らなさを感じてしまいます.......。

 下記は、自分への戒めと、勘違い甚だしい支援者への言葉だと思ってしまいました.....。
 
『残念ながらそのオウムは、間主観的な関係の下に筆者へと向かったのではなく、「係員風」という視覚だけに基づいていたのである。』
 自分は、そうなりたくない(支援者風に)がために、勉強しているのですが、時々風になっている自分を感じて、落ち込んでしまいます.....。落ち込むだけでは駄目なので、本を開き続けようと(現場にいかすために)思っています。
 お互いが生き残るなければ、達成できない何かを求めて、今日も一日が終わろうとしています。






2)間主観性の意味
StolorowとAtwoodが提唱し、私がこの本で使っている間主観性は、人の主観と主観が出会うと必ず発生する現象を指している。したがって、生まれたばかりの赤ん坊と母親との間にも間主観性が存在する。この考え方は、間主観性を、生後7ー9ヵ月前後に始まる「主観的自己感の形成期」に至って初めて可能な「発達的達成」と考えるStern(第7章参照)とは異なるし、また、「関わり合う両者それぞれに主体性があって初めて間主観(主体)的と言える」とするベンジャミンとも違う。 では、人と犬との関わりは間主観的と呼べるのか?猫とはどうか?それも(飼い主が例外なく主張するように)“我が家の賢い猫ちゃん”の場合はどうか? 筆者の体験によれば、オウムとの間には間主観性は生じない。 ラスベガスはショウの後がロビーでオウムを係員の肩から他の係員の肩へと飛ばすデモンストレーションがあった。その時、一番立派なオウムが、係員の肩を飛び立ち、一直線に私の後へと向かってきたのである。その瞬間、筆者に頭を、「(このオウムは、賢く用いて、筆者が動物好きで動物を可愛がることを間主観的に直感しているという考えが過った。ところが家内に肩を叩かれふと気が付くと、筆者は、我を忘れて、一人、人垣の輪の真ん中に。オウムから見れば係員としか見えない位置に立っていたのである。 残念ながらそのオウムは、間主観的な関係の下に筆者へと向かったのではなく、「係員風」という視覚だけに基づいていたのである。