うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

CBCわくぴたっワークショップと、【まず「抑うつ態勢」(Klein 1935)、つまり、「思いやる段階」(Winnicott 1950)に到達し、ついで、エディプス水準に至ることなどが、正常な発達のときと同様に、連なります。】



 お天気にも恵まれ!無事ワークショップが開催されました!
渥美半島は、停電などで、信号機もついていない箇所があった様で、留守を守ってくれた、管理者さんと主任さんが連絡してくれました。
 皆様のご協力なくして、自分たちは外に出られませんので、本当に感謝しています。
取り敢えず、両面テープを段ボールに貼りましたが、後で両面テープが段ボールの表面を剥がしてそのままTシャツの裏にひっついてしまい、どうしても取れない一枚は、自分が責任を持って剥がすと、持って帰りました。
 自分がやるなら、段ボールは使わないのですが、慣れない方には、必須アイテムです。それが、ドライヤーを二度かけしたり、色を塗る時に、肘や手を強くついてしまうという計算をしていなくて、申し訳ありませんでした。ベニヤ板なら良かったかもしれませんね。


 見本に、来ることが出来なかった方の物を摺らせて頂きましたが、本番の見本を親分が写さなくて.......。本当に商売っ気がないお方です(笑)
 初めての体験と言うものは、皆さん新鮮に感じられるので、本番の見本の時は、わぁ〜と言う声が、聞こえていました。
自分の描いた絵が、物になるなんて、普段は考えもしませんからね!





 みなさん、失敗もありましたが、それはそれでOKですね!
型を持って帰って頂いたので、何度でもやり直しができます!自分の主治医が言うように(笑)、またやり直したらいい!です!









 みなさん、リピドーが満ち溢れているので(重度の精神障害のある方は、リピドーが何かに抑圧されて表面に出てこない。精神分析の本を読み過ぎですねw)、何の説明も要らないくらいに、どんどん進んで行きました!
 


 最後は、皆さんで記念撮影をされていましたが、こちらでのアップは、これが限界です。

 サンドアートの一環で、自分たちは補助的な役割でしたが、参加者さん達のおかげで、素敵な時間を過ごすことができ、ありがとうございました!名古屋から田原まで、打ち合わせに来て頂き、今日も丁寧な対応をして下さったCBCの西様や、お名前をお聞きするのを忘れてしまいましたが、一緒に型を洗って下さった方にも、感謝です!ありがとうございました!
 今は、時間のせいにして(笑)作品を作るのをさぼっていますが、作品作りとは、準備から片付けまでだと、若い時から思っているので、それが出来ない方は、物を作っていると言ってほしくないですね(笑)。
 自分は、道具も作品の一部だと思って生きて来ました!



 本は、昨日と今日の空いた時間、ホテルで読ませて頂きましたし、ギターを持って行くのを忘れ、昨夜は宿が上前津でしたので、夕食を摂った帰りに、コメ兵のギターを売っている店舗で、状態の良いJ-45を弾かせて頂きました。本当に良い音がしましたし、激しく弾いても、弾き方を見て、店員さんも見逃してくれていました(笑)。弦のすべりが非常に良かったので、何の弦を張っているのか?聞いてみたらNANOWEB 80/20 Bronze Extra Light #11002 だとの事。エリクサーは知っていますが、価格が、自分が使っている弦の倍します......。
 でも、あれだけすべりが良ければ、コーティング弦だし、長持ちすれば良いのかな?と思いました。が、買ってもらえないでしょうね(笑)。




 ワークショップだけでも長いのに(笑)、もう少しの辛抱です!
リトル先生は、これで終わりです。もう読み終えましたが、次回からは、丸田先生が暫く続きます。こちらも本当に現場で使えるものです。
 本当に凄い方は、現場にしかいないのかも知れませんね!福祉に限らず、どこの業界にも!

 



 二人ともが、危機を生き抜け、防衛が再建されることがなかったら、分析者の方は、徐々に、合わせを減らして行きます。被分析者の方は、まとまってゆき、一個の人、これまで在った「自己」は(つながりはあるけれども)異なった自己、になるのです。「母される」motheredという体験は、真の変化体験であり、その中で、自信喪失回復と存在の連続性とが供与されることで、生存とアイデンティティをめぐる不安、が解消されるのです。リアルな存在出逢い、と感じられること、内側のことと外界のこととが、識別できること、空想でき、しかも空想と現実とを、区別できていること、象徴化を使えること、これまではできなかったようなやり方で、他者と関われること、成熟して、まず「抑うつ態勢」(Klein 1935)、つまり、「思いやる段階」(Winnicott 1950)に到達し、ついで、エディプス水準に至ることなどが、正常な発達のときと同様に、連なります。その際、前に達成された成熟は、すべて、後の成熟を手助けするのです。 常に気づかれていることではありませんが、依存は相互構造です。分析者も患者に依存しています。セッションにやってきて、playしてくれて、自分でやれるだけ、やれる形で協力してくれるという点で、退行し無力となることに身をまかせてくれる点で。そして、最後には成長してくれる点で。それらのことを、分析者が患者にかわってすることはできませんし、患者をそう仕向けることもできないのです。分析者ができるのは、そうしたことを助成することだけです。確かさと理解と、患者のレベルでコミュニケートする技量とで、助成するのです。
 精神病や境界例の患者との分析治療、が成功した場合には、常に、患者当人にとっては、きわめて明白な利益となります。他方、分析者にとっては、うまく仕事を終えて、共通の願いを達成しえた、という充足にかてて加えて、精神病への理解が増した、という利益とがあるのです。そしてさらに、精神分析の価値の拡大があるのです。守備範囲が外に広がってゆくという発展が。