うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

梅の花と、『第6章 破壊的な自己愛と死の本能』(治療の行き詰まりと解釈より』


  勇気こそ地の塩なれや梅真白 中村草田男


【マタイによる福音書より】
「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなればその塩は何によって塩味がらつけられよう。もはや、何の役にもたたず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

塩は食物の腐敗を防ぎ、光は暗闇を照らし出します。塩のように世の中の腐敗を防ぎ、光のように悪の浄化する存在になるよう、イエスキリストが山上で信徒に語りかけた。



先日、NHKのウェブニュースに下記のニュースがありました。
ちょうど読んでいる箇所と同じような内容だったので深く読んでしまました。


障害者殺傷事件 元職員は「自己愛性パーソナリティー障害」か

2月20日 18時36分

相模原市知的障害者施設で46人が殺傷された事件で、殺人の疑いで逮捕された27歳の元職員は、専門家による精神鑑定で、みずからを特別な存在だと考えたりする「自己愛性パーソナリティー障害」など複合的な人格障害があったと指摘されていることが、捜査関係者への取材で新たにわかりました。こうした人格障害は裁判上は責任能力があるとされていて、検察は元職員を今週中にも起訴する方針です。

去年7月26日の未明、相模原市緑区知的障害者の入所施設「津久井やまゆり園」で入所者が次々に刃物で刺され、19人が死亡、27人が重軽傷を負った事件では、施設の元職員、植松聖容疑者(27)が、19人を殺害したなどとして逮捕され、去年9月から専門家による精神鑑定が行われました。

およそ5か月間にわたった鑑定は、これまでに終わり、20日に東京都内にある警察施設から捜査本部が置かれている津久井警察署に移送されました。

これまでの鑑定で、植松容疑者は人格障害の1つで、周囲からの称賛を求めたり、みずからを特別な存在だと過度に考えたりする「自己愛性パーソナリティー障害」など複合的な人格障害があったと指摘されていることが、捜査関係者への取材で新たにわかりました。

これまでの調べに対し、植松容疑者は「障害者は不幸を作ることしかできない」とか、「事件を起こした方がみんな幸せになれると思った」などと供述していたほか、事件の5か月前には社会のために障害者を殺害するとした計画を記した手紙を衆議院議長に渡そうとしていました。

鑑定では、こうした言動などから「自己愛性パーソナリティー障害」と指摘したと見られています。
こうした人格障害は裁判上は責任能力があるとされていて、検察は今週中にも殺人などの罪で起訴する方針です。


夜勤に行って来ます。


第6章 破壊的な自己愛と死の本能
 自己愛的で万能感的な対象関係によって精神病理が支配され、その結果、(前の2章で論じた患者のように)陰性治療反応を引き起こした患者の転移関係を分析した経験から、私はこのような自己愛的な患者の攻撃性と破壊性と、それが自己愛的な各個人の生き方のなかに取り込まれている特別なあり方を理解し分析することの重要性に注目するようになった。自己愛についてはある程度詳細に研究していくうちに、私は自己愛のリピドー的な側面と破壊的な側面とを区別していくことが本質的であると考えるようになった。自己愛のリピドー的な側面ということでは、主として自己の、理想化は根差した自己の過大評価が中心的な役割を果たしていることに気づかされる。自己の理想化は、理想的な対象とその属性の万能感的な投影同一視と取り入れ同一視によって維持される。このやり方によってナルシストは外的な対象や外界の価値あるものはすべて自分の一部分であるか、自分によって万能感的にコントロールされるものであると感じる。このような過程がよくない結果を生み出すことは明らかであり、フロイト(1914)は自己愛を一般的に、自我へのリピドーの配分とその病理的な結果ということに関連づけて論じている。自己愛的な状態ではすべての対象備給は失われ、転移は存在しない(対象への無関心)とフロイトは信じていた。しかしまたフロイトは、自己愛をナルシストの自分自身へ向けた愛と利己心の側面からも論じている。一例として、フロイトは「個人が所有しているか達成したものすべて、原始的な万能感の残遺はすべて、利己心が増大することを確実に助けるものとして経験される」(1914:SE 14:98)と強調している。私の見解では、このタイプの自己愛はしばしば自己を一義的に保護するものとして機能するが、患者のなかには、自己愛的な防衛が欲求不満や侮辱によって破砕されたり孔を開けられることにより、非常に傷つきやすくなっている者がいる。このことは自己の理想化の肯定的な面を否定的な面から区別するうえで❗大変重要なことである。それゆえ私は、自分が自己愛的な過程の否定的な結果にばかり焦点を当てているのではなくて、側面の肯定的な効果も注意深く検討していることを強調したい。自己愛的な現象をすべて同じやり方で分析していくことは、治療上破壊的でさえありうる。
 自己愛をその破壊的な側面から考える場合にも、われわれは自己の理想化が中心的な役割を担うことを見いだしたが、そこで理想化されるのは自己の万能感的で破壊的な側面である。これはあらゆる肯定的でリピドー的な対象関係や、自分は対象を必要としておりそれに対する依存欲求を持っていることを経験できる、自己のリピドー的な部分に向けられている。自己の破壊的で万能感的な部分はしばしば仮面をかぶった状態で存在し続けたり、黙して分裂排除された状態で存在しているために、その存在自体があやふやで、外界と全く何の関係もない印象を与える。実際には、この自己の一部分は、自己が対象に依存する関係を結ぶことを妨げ、外的な対象を永久に脱価値化し続けることにおいて、絶大なる力を発揮する。自己愛的な個人が、外の対象や外界に対して明らかな無関心を示すことは、このことから説明できるのである。
 経験上こうしたリピドー的な側面が優勢な自己愛的な状態においては、患者の万能感的な自己理想化が自己と別の存在であると認識される対象との接触によって脅かされるやいなや、治療関係においてあからさまに破壊性があらわれてくるこが示唆される(第4章、アダムの症例参照)。このとき患者は自分自身の創造性によるとみなしたて価値のある性質が、本当は外的対象に属していたことを知って、侮辱され敗北させられたと感じる。自己愛的な状態の第一の機能は、羨望と破壊性への覚知をすべて隠し、自分がそうした感情を持っていることを感じなくすることである。しかしながら、精神分析によってこうした願望があることに患者の注意が向けられるようになると、患者が自分の万能感的な自己愛を奪われたと感じることによって引き起こされた恨みと復讐の感情は減少する。この時には羨望は意識上で経験され、分析家は援助を与えることができる価値のある外的な人物として少しずつ認識されるようになる。
 他方、自己愛の破壊的な側面が優勢な場合には、破壊性を明らかにすることがより一層難しいところに困難さがある。羨望は一般に一層激しく、直面することが一層難しいものである。転移を介して生命と美徳の対象でもあり源泉でもある存在となった分析家を破壊したいという圧倒的な欲求がある。患者は精神分析の作業によって明らかにされた自分の破壊性にひどく脅かされるようになる。それゆえこの過程にはしばしばはげしい自己破壊衝動の出現が伴う。幼児期の状況から考えると、このような自己愛的な患者は、自分たちに生命を与えたのは自分自身であり、自分たちはだれの助けも借りずに自分を食べさせ、育てることができると信じるように決心させられたのである。そうしたことから、彼らは、自分たちが(両親、特に母親をあらわしている)精神分析家に依存しているという事実に直面させられたとき、その事実を認めるよりはむしろ死を、非存在となることを、自分がが生まれたという事実を否認することを、すべての精神分析的なまたは個人的な進歩や洞察が得られること(両親を意味する精神分析家によって創られたと感じられる、患者のなかの子どもとしての部分をあらわしている)を破壊することを選ぶように思われる。この時点で、このような関係はしばしば精神分析を中断することを望むが、より頻繁に起こることは、彼らが自分の職業上の成功や対人関係を駄目にしてしまう形の自己破壊的な行動化を起こす事である。こうした患者のなかには非常に抑うつ的となり、自殺念慮が現われるものもいる。死への願望、忘却の彼方へ消える願望があからさまに表現される。死がすべての問題の解決として理想化される。このような破壊的な自己愛がどのように機能しているかについての理解を深め、これを治療しようとしたときに生じる陰性治療反応をどのように防止するかを理解することがこの章の主な目的である。