うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

CBCさんの『わくピタッ』ワークショップの準備完了と、【身体の痙攣が、緊張の極致と弛緩とを繰り返し、それは、外傷的な出生というよりも、むしろ出生前の体験を再度体験していたのだと。】



 まず、頂いた原稿をコピーして、ピンホールになりそうな黒点と汚れを、カッターナイフで除去します。



 それを機械で、型にします。

 全部は、試し刷りはする時間がないので、2つだけやらせて頂きました!


 台風で中止になるかどうか分からないので、今から名古屋入りします!ので、早めにアップします。




第9章 精神病水準の不安の開拓
 わたくしは、徐々に、それまでの万能的な、偽りの、「管理する」自己、を放棄して、彼の「holding」に身をゆだね、傷つきに満ちた幼児期と小児期を、もう一度生きたのです。必然的に、わたくしはイメージ界で彼を破壊し、に破壊され(これもまた、どちらでも同じ)、そしてしばらくして、二人とも生き残っているのに気づき、彼を役立て、に役立つことができるようになったのです(Winnicott 1968,1970b)。
 〜現在のわたくしは、あのセッションを次のように考えるようになっています。身体の痙攣が、緊張の極致と弛緩とを繰り返し、それは、外傷的な出生というよりも、むしろ出生前の体験を再度体験していたのだと。(最近の研究で明らかになっているところでは、出生時には、感覚器官は完全な発育しているのです。出生以前の生において、母親の不安の身体表出――早い心拍や呼吸、内臓の動きの亢進、など――が、羊水を介して伝達され、胎児の反応を刺激して――睡眠から突然に目覚めたり、動いたりなどして、明らかに、「破壊」と呼ぶにふさわしい反応、をもたらすのです。そうなると、出生の過程は、それまでに体験してきた、破滅と連続性喪失の体験、の程度の巨大なものとなってしまいます[Winnicott 1949b])。