うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

ギターがボロボロにと、【私たちの解釈はすべて確実な主張というよりも提案の性格を持っているべきで、これは単に患者を刺激しないためだけではなく、私たち自身実際に間違うことがあるからです。】


 今日は、早番さんのお手伝いと、買い物と、夕方の入浴支援と、空いた時間に常勤換算を作っていました。
夜、帰宅してから、少しロバート・ジョンソンや、練習中のラグタイムのギャロッピングの曲を弾いていたら、ギターがボロボロになっているのに気付きました。そういえば、親分が、割れてるんじゃないか?と言いていた気がします。割れていませんが、板が薄くはなって来ています。アコースティックは、ピックを使わないので、それじゃ爪もすり減るわけですね.....。



 本は、昼食をマックで摂り、その時に少しだけ読みました。
この本は、現場に参考になる箇所が沢山あるので、ほぼ読み終えていますが、だらだらと(笑)しつこく読ませて頂いています。
 精神分析が万能だとは(自分がきちんと理解していないだけですがw)思いませんが、参考になり使える箇所は使うべきですね!



 下記の2つは、神経症者、精神病者だけでなく、知的に障がいをお持ちの方々にも十分当てはまります。
 ご家族と、ご本人の思いが違い過ぎた場合、支援者のやり方と、利用者さんの思いが違い過ぎた場合に、不信と拒絶を感じる事が多々あります。
転移⇒逆転移⇒逆々転移を見れば良いと言うことでしょうか?現場にいたら、他の職員と比較されていたり、他の施設と比較されていたり(利用者さん達に)していることがよくあります。ご家庭ともですね!その時を利用するのは、本当にそうだと思います。
それと、日中・夜間とか、それ以外の場所との比較があったりしますね。日中では元気なのに夜間は大人しいとか、その逆とか、色々あります。その理由は、表出の言語がある方なら、自分はハッキリ話し合います。ここでも腫れ物に触るようなやり方は、お互いに長い時間を無駄にするだけです。 表出の言語がない方には、遊びで対応させて頂いています。遊びの種類は無限なので、その方に合ったやり方を徐々に見つけて、あの時は好きで没頭できたのに、今回はこっちの方が没頭しているとか、いろんな角度で、いろんな目で見て行くと、いつかはお互いに答えが自然と出て来ます。


『分析の道程では、秘められたあるいは無意識的な不信と拒絶の表れを常に片目でうかがいながら、それらについて容赦なくとことん話し合うのがよいのです。』
『ですから、たとえばあまりにも大きなくしゃみをしたり鼻をすすったりすることで患者の美的感情をそこねたとき、あるいは患者が私たちの顔に不快を感じたり、あるいは私たちの体格をずっと立派な人の体格と較べたにちがいないとき、すぐ前の連想素材に基づいて私たちが常に自分で察知する以外道はありません。』

 こちらも、そうかもしれませんね? ぶちまける方が、お互いの将来の為だと思います。
 『十分にぶちまけてしまえば、たとえためらいがちであっても、声高な防衛の背後に隠された親愛の感情にも気づかざるを得ません。それによって場合によれば、潜在的素材へ、とりわけ(ふつう理解ない教育者によって)ある種の意地悪な性格特性への基礎が敷かれた幼児期の状況へ深く入り込むことが可能になるでしょう。』


 こちらは、福祉の現場でこういう職員が多いので、福祉がまがい物扱いされる原因ではないのか?と、思ってしまいます。おそらく自信と自分(主体)がないかたが、逆に突っ込まれるのが怖いので、高圧的な態度に出るのかも知れませんね......。
 主張より提案というのは、素晴らしい提案ですね。自分を主張したければ、何かを作ればいいと思いますし、言い切ってしまうのは、どうかとも思ってしまいます。その時には上手くいっても、同じ方法が次に上手くいくとは限らないので、on goingで、支援方法は考えていかなければなりません。
 『教師ぶった医師、それどころか単に権威的な医師の態度ほど分析に有害なものはありません。私たちの解釈はすべて確実な主張というよりも提案の性格を持っているべきで、これは単に患者を刺激しないためだけではなく、私たち自身実際に間違うことがあるからです。』


 明日は、何も用事のない休日ですが、事務仕事が山積して来たので(笑)一気に片付けようと思っています。
家にいると、ついついギターを触ってしまうので、事務所に行こうと思います。





 〜分析の道程では、秘められたあるいは無意識的な不信と拒絶の表れを常に片目でうかがいながら、それらについて容赦なくとことん話し合うのがよいのです。患者の抵抗が、自らに与えられた打ってつけの機会を利用しないでおくわけがないのはもとからわかりきったことです。どの患者も例外なく、医師の振る舞い、外見、話し方のごくわずかな奇妙さに気づくものですが、事前に励まされなければ、それを私たちに率直に言う決心はつきません。たとえそれによって分析の中核的基本規則にひどく違反するとしてもです。ですから、たとえばあまりにも大きなくしゃみをしたり鼻をすすったりすることで患者の美的感情をそこねたとき、あるいは患者が私たちの顔に不快を感じたり、あるいは私たちの体格をずっと立派な人の体格と較べたにちがいないとき、すぐ前の連想素材に基づいて私たちが常に自分で察知する以外道はありません。――分析家は治療において、しばしば数週間にもわたって、患者が自らの不快な感情を試してみ「非難の標的」の役割として自らを提供しなければならないことを、すでに別の機会に何度も説明してきました。もしそれを避けないだけでなく、臆病すぎる患者を機会あることにそちらへと励ませば、私たちの忍耐は、遅かれ早かれ姿を現す陽性転移の形で相応に報いられるでしょう。医師側の怒りや不快感がわずかでもあるたびに、しかし医師が自己弁護しなければ、患者は徐々にこの一方的な戦いに飽きるでしょう。十分にぶちまけてしまえば、たとえためらいがちであっても、声高な防衛の背後に隠された親愛の感情にも気づかざるを得ません。それによって場合によれば、潜在的素材へ、とりわけ(ふつう理解ない教育者によって)ある種の意地悪な性格特性への基礎が敷かれた幼児期の状況へ深く入り込むことが可能になるでしょう。 教師ぶった医師、それどころか単に権威的な医師の態度ほど分析に有害なものはありません。私たちの解釈はすべて確実な主張というよりも提案の性格を持っているべきで、これは単に患者を刺激しないためだけではなく、私たち自身実際に間違うことがあるからです。〜