フェアトレード展での、あまのっちの作品の展示の様子が、楽笑さんから送られてきました。良い感じですね。ありがとうございました!
17日に、CBCのワークショップで使う、写真を撮るために、シルクスクリーンをやってみるとの親分の命令で(笑)親分下絵の物を、焼きました.枠はこの型に対しては、小さすぎますね。
簡易の型は直ぐに出来ますが、この機械は既に製造中止になっていて、13年前に、ボロボロの中古品をなんとか手に入れました。しかし、このフィルムがまだ販売しているのか?怖くて(笑)まだ調べていません。高価ですがね........。
親分の卒論は、ロートレックだったそうです。関係ないか(笑)
本は、夜勤明けにファミマで読んでいたら、現場に呼び出され(笑)直ぐに戻ったので、あまり読めていません。(3ページくらいw)
貯金があるので、暫くは余裕ですが、いつまでもあると思うな!ですね(笑)3年に一度の制度見直しがあったり、4月末に請求ソフトの更新があったばかりなのに、5月8日付でまた更新があったり、国保連の方々も大変ですね......。なんだか、やっぱり野党が18連休にしたことに.....。まあ、それ以前にも審議拒否があったようななかったような.....。自民党を脅かすような政策を作れる野党が出て来てほしいですね......。自分たちは連休でいいたくれ(笑)役所の仕事が遅れて、末端にいる自分たちはもっと遅れる.....。働き方改革?ふざけるな!と言いたくもなりますね!!!!!とちょっとストレス解消してから(笑)寝ます(笑)
しかし何故?野党の方々は、朝鮮半島問題に熱心になれないのでしょうか?不思議で仕方ありません.....。
犠牲を払うというと、それが聖職者というようなイメージがありますが、死ぬか生きるかではなくて(精神分析家は生き残らないといけないのと同じで、支援者も生き残らないと意味がありません)、取組み方を現わしていると(死の欲動かもしれませんが.....)思いながら読ませて頂いています。
それが、一次的・一次愛と言う事なのでしょうが。
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エロチズムの本来的目的、すなわちあらゆるされることを達成する一つの迂回路は、リビドー的ナルシシズム、すなわち自己・愛である。もう一つ迂回路があって、それは能動的対象愛である。われわれのパートナーを愛し、満足させてやるが、それはお返しにパートナーに愛してもらい、満足を与えてもらうためである、ということになる。この能動的愛は必ず無理を、自己犠牲を意味し、付随現象として緊張が一時的に高まる。この我慢を引き受け、この緊張に耐えるのは、この道を通っているかつて人生の初めに愛されたように愛されるという目標に到達できるという希望があるからである。どういう犠牲を引き受けるかは、どういうものを求めるかによる。また、その人の育てられ方にもよる。この見方に立つと、性器段階以前の対象関係、性器段階以前の愛の形態が今までと違った光のもとで見えてくる。もう生物学的説明はできない。これらは、いささか乱暴な言葉を使えば人工産物とみなされるべきである。すなわち、われわれは社会一般、あるいはその人を教育した人によってつねにこの意味で行ってきたではないか。
この見方に対して賛否いずれにせよ、もっとよい証拠を提供してくれるものに人類学がある。残念ながら、この点からすればわれわれの知識は非常に不完全である。しかし、子どもがあまり「教育」を受けずに成人になるところでは、成人社会も反動形成をさほど起こしていないことは、すでにかなり確定的だといってよいであろう。この点に関連して、ゲザ・ローハイムはオーストラリア・アポリジニーとパプア原住民とのもとで経験したところをしばしば引き合いに出している。彼によれば、成人における口唇的泳い肛門的愛は、社会によって強制されている時にだけ見いだされないしたがってオーストラリア・アポリジニーにはまず存在しない。マーガレット・ミードはオーストラリアサモア人とニューギニア住民との間に類似の差異があることを突き止めることができた。彼女の後の著作『性と気質』Sex and Temperamentにおける報告はここで重要となる。 性器期以前の愛だけでなく、私ならフェレンツィの意味での「能動的対象愛」と呼びたい。いわゆる両義性以後的性器愛postambivalent genital loveも、その起源は受身的対象愛にある。これもまた人工産物である。もっと品のよい名を付ければ、文化の所産である。それは学習して習得されなければならないもので時には非常な苦労を伴う。ここでもう一度言っておきたいのは、この定式は「性器愛」にだけ正しく、性器的満足の形態には該当しない。ここでも臨床経験を証拠とすることができる。愛する能力はないが性器的にはポテントな人が、愛する能力を分析治療の間に獲得することがあるのではないか。性器性と能動的対象愛とが同一物でないという別の証拠としては老年者の愛がある。性器の機能が完全に消失してからも愛する能力が残ることは決して稀ではない。ゲーテが七九歳の時に作った詩「昇る満月」を挙げておこうか。世界文学におけるもっともかがやかしい恋愛詩である。〜