うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日の夜勤と、【子どもが何かを得たならば、子どもは、受け取った満足によっていわば整形される。】



 いつも夜勤の時、皆さんは支援者の仕事がひと段落つくまで静かにされていますが、ひと段落つくと、突然ひょうきんになります(笑)
今日は何がきっかけだったのか?思い出せませんが(笑)、どこから持ってきたのか?利恵さんがバルーンのトイプーヂルを持ってきたら、たくちゃんも持ってきて、ブルンブルンさせて(笑)みんなで大笑いしていました。


 管理者兼看護師さんが帰るのを(遅くまで手伝ってくれました)見送りに来たのに、玄関にあるテディベアで遊びだし(笑)まりちゃんが、テディベアのマントを、利恵さんに着けていました(笑)
玄関でも大声が響いていました。

 今日も無事一日が終わった事、感謝です!

 



 本は、自分の受診時に沢山読みました。第18章に入り、その章が終われば、第3部に入ります。本当にもう一息です。
下記を読んでいて、改めてこの本は一次愛について書かれた本だったと思い出しました。ここにきてやっと、一次愛の入り口を見つけたような感じがしました。
 現在読んでいる箇所では、やはりクラインは凄いんだと思いました。まだまだアップが追いつきませんが........。

 夜勤に戻ります。



 〜私は、こういう発想が現行の分析理論の欠けているところを補うものであるという見解を抱いている。フロイトは、児童のこの最初の時期を一方で「多形倒錯的」polymorph−perverseと呼びながら他方では自体愛的autoerotisch’ナルシシズム的narziβtischとも呼んでいた。どちらの名称も正しくて、現実の状態を記述しているのは間違いないが、特殊な観点から見た名称である。赤ん坊は確かに多形倒錯的である。全身体も全機能も快楽に向けて調律されている。この用語は、したがって、純粋に記述しているだけの用語である。しかし、それは、欲動の領域、生物学、だけしか見えていない用語である。子どもの世界はまだ自我と外界とに分離していないことも等しく真実であるから、したがって、現実感覚、現実吟味の観点からみればナルシシズム的である(アリス・バリント参照)。生存に必要な外界の対象、たとえば母親の乳房でさえもまだ精神的には自我から分離していない。しかし、リビドー的には子どもは外界からの介護に完全に依存しており、それなしには死ぬほかない。
 さて、この一次的傾向性、すなわち、私はいつも、どこでも、あらゆる形で、私の全身体を、全存在を愛してほしい、それ万も一切の批判がましさなしに、私は側から僅かにでも無理する必要なしに――、これがすべてのエロス的努力の最終目標である。この傾向性は生涯を通じて残るものであり、そのことをおおらかに認めている人も多い。しかし、そうではない人もいる。彼らのほうが圧倒的多数派であり、彼らは、この「受身的対象愛」という目標に非常な回り路をしてようやくこのことに到達する。教育というものは、このバイパスを強制し、工夫さえこらす。子どもに差し出されるものが少なすぎれば、子どもは、それまでは遊び半分に使っていた自体愛なのに、全リビドーを挙げて備給するようになり、ナルシシズム的あるいはサディズム的になる。同時にナルシシズム的かつサディズム的になることもある。子どもが何かを得たならば、子どもは、受け取った満足によっていわば整形される。どこでもいつも書いてある発達段階の肛門サディズム的、男根的、そして最後に性器的対象関係は、生物学的基礎ではなく社会的基礎があるものである。私が口唇的関係を挙げなかったことにお気づきだろうか。わざとそうしたのである。口唇的関係は、社会すなわち教育にもっぱら責を負わせるわけにはゆかない。