シルクスクリーンの枠と、【愛されるためには、ということは健康でありつづけるためには、世界と接触しなければならないし、リビドーを対象に備給しなければならない。】
今日は午前と日中は、久し振りに事務所に入ることができたので、夕方の入浴介助まで、事務仕事をやっていました。
お昼に、親分から電話があり、大家さんが枠にスクリーンのフィルムを張ってくれるとの事で、説明をさせて頂きに行きました。CBCのワークショップに使う写真を明日撮るので、自分的には枠があると駒ベラが自由に使えないし、摺った感じを枠がない方が、フィルムを上げて確認でき、薄ければもう一度摺り直せるので安心して出来るのですが、絵にはなりにくいですね(笑)まあ、親分がやるらしいので(笑)まあいいですね(笑)ヘラを寝かせすぎないようにとだけ、伝えました。
今日は、あまり本が読めませんでしたが、アップは考えさせられた箇所でした。
下記は、まさしくその通りですね!そのために、現場で生かされているような気がして来ました。
『愛されるためには、ということは健康でありつづけるためには、世界と接触しなければならないし、リビドーを対象に備給しなければならない。』
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一般に、愛とは、われわれ西洋文化の理解の仕方では、やさしさと切っても切れないものである。それが健康なのかどうか、自己本位の愛は、自分の願望の満足だけを求め、パートナーのことは、この目的のために必要なだけしか思いやらないが、それは、相手され満足をまず考える、思いやりのある、愛他的な愛よりも果たして自然なものかどうか。 われわれの立場からすれば、この問題に決定的な解答を与えられる。どうしてナルシシズム的愛が完全な満足を与えないかという問題である。ナルシシズム的愛は「私は愛される」という、すべてのエロスの本来の目的に到達はする。ただ、それは外界の現実においてではなく、内向きの、幻想の中だけのことである。不完全な代用品が持つ性質である。「もっとよいものがないから仕方がない能動的」という感じがつきまとっている。こういえば、フロイトが『ナルシシズム入門』で問いつづけた問題が解決する。それは「ナルシシズムの限界をこえてリビドーを対象に備給せしめる精神生活にとっての必然とは一体どこから来るのか」という問題である。一次ナルシシズムが存在するという仮説に立脚すれば、次のような、臨床的には正しくても、論理的には問題を同語反復的に投げ戻すにすぎない答えに甘んじなければならない。すなわち「この必然は、リビドーの自我備給がある限界量を越えた時に生じる。強力なエゴイズムは病気になることを防いでくれるがつきまとって最後には病気にならないためには愛することを始めなければならない。何かが足りないために、愛することができなければわれわれは病気にならざるをえない」。受身的対象愛の概念を認めてはじめて、この正確な臨床的記述に説明がつく。すでに述べたように、ナルシシズム的愛はあらゆる性的な求めにおいて本来の目標に到達しない。愛されるためには、ということは健康でありつづけるためには、世界と接触しなければならないし、リビドーを対象に備給しなければならない。