うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

昨日の写真と、【とにかく、われわれにとって何よりも重要なのは、その児と周囲の成人との、良質のやさしさ(愛)の籠るわかりあいである。】


 写真は、昨日の白谷の海水浴場のものです。後、ひと月もしたら、海水浴の準備が始まるのでしょうか?
若い方々が、動画を撮るためか?飛び込んでいました(笑)まだ寒いので危険ですね......。

 今日は、休みでしたが現場に呼ばれて行きましたが、直ぐに帰宅するつもりが、送迎のミスが発覚して、急遽、渥美に走りました。
申し訳ありませんでした。案外、忙しい日ほど、ミスがありませんね......。今日は暇だったわけではありませんが、ベテランさん揃いだったので、余計に誰かが気づくだろうと、のんびり構えてしまったのかも知れません.....。





 本は、昼食時に読みました。後100ページくらいになりました。全部で360ページくらいなので、あと一息です!

 エディプス水準に達していない方を(基底水準の方を)エディプス水準に少しだけ近づけて、今まで出来ていなかったことが出来るようにしないといけない場面が良く見られます。説明の仕方が悪いかも知れませんが、例えば、洗髪を嫌がる方を、嫌がらずに洗髪できる方法として、どこまでなら現時点で耐えられるか?を、少しずつ介入してお互いの妥協点を見つけます。そしてしばらくその妥協点を続けながらも、少しずつ前進して行けば、洗髪に対して嫌がる事もなく、介入させて頂けるようになります。
 そんなことができるようになれるのも、魔法なんかではなく、対象として見て頂けるか?だと思っています。行動療法的には、支援者が好子(強化子)になれれば、簡単なことです。そのためには、その方と、素敵な時間を沢山過ごすことです。ただ、要求を受け入れるという意味ではなく、例えば、その方の大好きな音楽を聴きながらドライブするだけでも、素敵な時間を過ごすことができ、大好きな音楽という対象が、支援者に移行することができます。
 今回のアップとは、直接関係はないのかも知れませんが、今日現場にいてふと思い出したことだったので書いてみました(笑)

 学習することは簡単ですが、一度身についてしまったものを消去するのは至難の業ですね。またまた逸脱しています。
明日はアトリエ・カーグとバンドクラブの日です!早朝に搬入の車を置きに行きますので、早めに寝ます(笑)





                                4  健康な児童の観察は、われわれの体験の第三の源泉であるが、以上の所見と矛盾するものは何一つない。われわれの社会の健康な児童の対象関係からみてとれるものは、かなり多様な像である。何よりもまず存在するものは「やさしさ」zartlichkeit(愛love)への願いであって、これが重要な役割を演じている。この願いは、われわれが辿れる限りでは、必ず対象に向けられている。次に来るのが増悪と攻撃が示す諸現象であるが、これは必ず遡ればある事件までたどり着くことができ、また、その説明をその児の個人史の中に見いだすことができる。それらは、なるほど、はなはだしい極端に至ることがあるが、しかしもっともな理由がないことは絶対にない。最後に来るのは自体愛であるが、軽やかに遊び半分にならともかく、熱狂的に実行される場合には、必ず、それは反抗的虚勢、苦い思いで手にした自立性の現れである。さらによくみれば、本性は慰めであることにおのずと見えてくるであろう。とにかく、われわれにとって何よりも重要なのは、その児と周囲の成人との、良質のやさしさ(愛)の籠るわかりあいである。これがあるかないかが、子育ての成否を測る物差しとでもいうべきものである。 この良質の理解の重要性は、はるかな幼などき、ほとんど子宮外に出た最初の数日にまで遡ることができる。清潔の訓練を終えた小児も、大きい失望を味わうならば一時的にこの習慣を忘れることがある。同じように、幼児期初期の児童、いや乳児も、周囲の人びととの良質の接触が撹乱されたならば、むずかり、ごね、泣いて、手に終えなくなることがある。これはいうまでもなく対象関係の問題であって、ただ今日まで、フェレンツィ一派以外においては、理論がほぼ完全に看過したものである。それは、この関係が、理論上、リビドーの前性器的体制のどの段階にも対応しないからである。子宮外生活のごく初期においては乳児はいかなる対象関係をも持ちえないはずであり、外界についての知識が皆無であって自己と周囲との区別をも学習していないではないかという理論上の反論には、アリス・バリントフェレンツィ記念論文集に掲載した論文「現実感覚と愛する能力の発達」が反芻するであろう。〜 フロイトは『精神分析入門』において(サディズムのような)部分欲動と多くはそもそもの始まりから対象を所有していると述べている。彼は言葉を継いで「他の、より明確に一定の性感帯と結びついている部分欲動は、対象をただ当初、まだ非性的機能に依存している時期に限り所有しているが、この機能から解放されるとともに対象を断念する」と記している。ここでいわんとしているものは口唇愛のことである。この続きはこうである――「口唇欲動は自体愛となる。……その後の展開には、手短かにいうならば、二つの目的がある。第一は自体愛を防御し、自己身体に密接している対象を再び自己以外の対象と交換することである……」。ここには、今日まで理論的考察の際には自体愛の古典的な例として働いてきた口唇愛してさえも、元来は対象関係として存在していたということが明確に表現されている。ただ、この一般周知の事実が一度も考察の対象にならなかったというだけのことで、それは現在適用の見解にしっくり合わないからなのであった。