うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

アトリエ・カーグと、バンドクラブと、【理論と実際との間のこのディレンマからわれわれを救い出させてくれるのは臨床体験である。】


 今日はアトリエ・カーグと、バンドクラブの日でした!
あまのっちは一気に塗りました!


 利恵さんは、今回も楽しそうに描かれていました。きちんと描き上げました!


 直樹君は、独特の世界観があります。


 おかもっちは、風格が漂っていますね。

 いのうえっちも、独自の世界観。

 きんちゃんは、多肉植物よりも、母の日なので、お母さんを描かれていました!

 ゆうちゃんは、多肉植物とおおばんやき(笑)などを描かれていました。

 たかちゃんも、お母さんを描かれていました。



 バンドの方は、始まりがちょっと難しかったですが(笑)
早めに休憩をとって、気を取り直したら、凄く良かったです。
 久しぶりの参加のKさんは、終わりまでにこにこされていました。

 始まる前の風景です(笑)たくちゃんがドラムをたたいていて(結構うまかった!)、欽ちゃんはめっちゃゆるゆるモード(笑)


 利恵さんは、今日も元気でした!リズムが大好きですね。

 後半は、歌もリズムもばっちりでした!みなさん本当にかっこよかったです!






 本は、早めに車を置きにいったので、目の前のマックでコーヒーを頂きながら沢山読みました。2時間くらいいたでしょうか?
今は第十六章に入ったので、後、四章くらいです。アップは第三章くらいでしょうか?本当に忘れていることを、思い出させてくれています。

 下記のように、利用者さんを見れる支援者は、利用者さん達から信頼されると思われます。
先天的な症状や、それを抑えるための処方によって、気分障害が出てしまう事もよくあるので、分かり易い原因の時もよくあります。

 『根性曲がり、意地悪、悪人、いやサディズムさえも精神分析が可能であり、治療が可能であるということは、そういう状態には成立の歴史があるということである。人が悪人になるのは苦しみをこうむったからである。成人でも児童も、根性がねじまがり、悪意を持ち、こういった的で、サディスト的であるならば、それにはそれだけのわけがある。原因を除去すれば、この性格、すなわちサディスト的対象愛は消失する(もっとも、遊び半分の攻撃という満足形態だけは消失しない)。この見解に反対する児童分析家がいるとは私には思えない。』

 急性期には、同一化するぐらいに寄り添って、症状が徐々に少なくなるにつれて、同一化から徐々に離れて行くと言うことの繰り返し(徹底操作)になりますが、それが一番大切なことかも知れませんね。自分がいなければ、なんて言っている様では、まだまだケツが青いといわれます(笑)。誰でも支援が出来るようになるのが一番大事な事だと思っています。





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  理論と実際との間のこのディレンマからわれわれを救い出させてくれるのは臨床体験である。われわれ皆は、実は気づいていること、そしてフェレンツィが最初に『タラッサ』において言語化したこと、すなわち「対象関係は精神分析によってかろうじて到達しうるような心で最深層においても支配的位置を占めている」ということを結局は真剣に考察せざるをえない。個人の幸不幸を決定する主なものは対象関係である。しかし、それをさらに精確に記述すること、すなわち、その体験に言語の衣を着せるのはなまやさしいことではない。私が患者を分析していて最初にこれを認知したのは、とくに頑固な性格障害のために分析作業を、言葉の真の意味で深めざるをえなくなった時であった。私が「新規蒔き直し」と命名した、その治療の最終段階においては、この最初期の対象関係の本性が明らかになる。その形式はほとんど全面的に受身的である。患者は愛することではなく、愛されることを願うのである。この受身的願望が性的、リビドー的であることは確実である。この願望を周囲に人びとが満たしてくれるべきであるという要求は絶対に自明であり、しばしば、まるで生死がかかわっている問題であるかのように、非常なエネルギーを費やして強烈に表現される。こういう願望すべての目的は、しかし、ふつう官能的あるいはエロス的といわれる意味のものに対応せず、フロイトが「やさしい」zartlich,tender「目的を抑えられた」zielgehemmt,aim−inhibitedと呼んだものを目指すのである。満たされないと熱情的、反応を呼び起こすが、逆に満たされると、ただ、静かで穏やかな「いうことなし」の感じが起こるだけとなる。 この落差は、フェレンツィヴィースバーデン精神分析学会における、彼には最後となった発表で述べたものである。ヘルマンはこの受身的対象愛の別の性質をかなり以前から認識していた。特に「しがみつき」anklammerung, clinging の傾向である。この傾向から、最近、アリス・バリント、研究している、振り落とされる恐怖が発生する。 教育者も精神分析家も、この現象を二重に誤解していた。まず、児童が熱情的に要求がましくなると、これは一次的なものであって、攻撃性の徴候であり、ひいては生得的サディズムの徴候だとしていた(この考え方はまっすぐ素因論につながる)。 「熱情」Leidenschaft, passionの語源を皆忘れていた。これは「苦しみをこうむる」Leiden,sufferingからの派生語である。その上、先天的な困った人も悪人も真のサディストも見たこともないという臨床体験を忘れていた。根性曲がり、意地悪、悪人、いやサディズムさえも精神分析が可能であり、治療が可能であるということは、そういう状態には成立の歴史があるということである。人が悪人になるのは苦しみをこうむったからである。成人でも児童も、根性がねじまがり、悪意を持ち、こういった的で、サディスト的であるならば、それにはそれだけのわけがある。原因を除去すれば、この性格、すなわちサディスト的対象愛は消失する(もっとも、遊び半分の攻撃という満足形態だけは消失しない)。この見解に反対する児童分析家がいるとは私には思えない。 第二の誤解も熱情性と関係したものである。現象形態と欲動の目標とを混同して働いていたために、それほど熱情的に欲求されるものならば熱情的快楽、すなわち感覚水準のオーガズムを起こすものだろうと思われていた。ここから、非常に幼い子どもが肉欲的・性器的傾向性を呈しうるなどに推論がなされていた。私もこの錯誤に陥っていた。それから脱したのは、新規蒔き直し期において熱情的に示される願望が正常なものとみるべきものだということに気づいたからである。しかし、熱情的な欲動的目標は相当程度の発達障害を示唆する。あるいは長期間の誤解、つまりフェレンツィの言葉を借りれば「成人と児童の間の言葉の混乱」を示唆する。