うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

シルクスクリーンの下絵草稿と、【われわれが症状の表面的な軽減だけに留まらないということを目指すとすれば、この先行するものも分析されなければならない。】


 昨夜、夜勤をしていたら、今度CBCのワークショップでやる、シルクスクリーンの下絵を作っていると親分からメールが来ていました。朝、帰宅したら机の上にありました。
お題は、夢とのことなので、獏を提案したら、かわいい獏が出来ていました(笑)親分の提案は、吹き出しで、きっとその中に皆さんの夢を書いて頂くのだと察しました(笑)
美大生なので、そんな感じの提案でした(笑)
 時間が合えば、名古屋なのでテディベア作家のHさんも手伝って下さるとのこと!鬼に金棒ですね! 日曜日なので、おっちゃんは行けるかどうか分かりませんが、スルクスクリーンを刷るのは、自分が一番本職だと思いますが(笑)


 本は夜勤明けに、ファミマでこっそりと(笑)読んでいたら、親分から呼び出しや、会計事務所から大体の決算報告があったり、結局あまり読めませんでした......。
決算の方は、今年度だけ見たら、赤字にはならないのですが、前年度の税金を納めたら、少し赤が出るとの事。まあ、制度が変わって(県の見解か?w)11月分から落ち込みましたが、色々手を打ったので何とかそれで収まりました。取り敢えず、皆さんに感謝です。今年度は、利益が出るように事業を進めているので、皆さんにも少しは還元できると思われます。親分とおっちゃんの収入が減りますが、経営責任ですね。また(といっても少ししか頂いていませんでしたがw)軌道に乗せれたら、基に戻させて頂きます(笑)
 自分たちは、お金を残したいのではなくて、人と組織を残したいがためにやらせて頂いています。会計事務所さんと理事さん達から、もう少し報酬をあげろと言われていますが、まずは利用者さんと職員さんがきちんと生活できれば、それが一番の幸せです。幸いに、職員さんにも理事さんにも恵まれて(親分には、奇跡だと思った方がいいと、口酸っぱく言わせて頂いています!)利用者さん達も安心して暮らすことが現在は出来ています。
 自分は、もっともっと勉強して皆さんが本当に生き易い様な環境の設定ができればといつも考えさせて頂いていますが、中々奥深くて入口を見つけた程度なので、今年度はもと頑張らないといけないな、とも思っています。





 アップは、今回も読んでいた方が、先にいくと楽に理解が出来ると思われる箇所です(笑)

 取り敢えず、寝ていないので(笑)寝ます!



〜さて、外傷への固着、外傷以前の状況への固着、外傷順応への固着という三つの異なった現象を一括りにして同じ名で呼んでも何もいいことがないのは確かであろう。しかし、われわれが非常に徹底的な臨床研究をしてきたにもかかわらず、固着というものについて知るところがほとんどないという事実は、少なくとも一部は前述の事実上に帰するべきまさにものと私は思う。今日でさえわれわれは固着はどのシステムに起こっているのか――自我かエス超自我かをほんとうに言うことができない。このような局所論的考察だけでなく、経済論的考察も力動論的考察もわれわれを五里霧中に置き去る。現在まで、精神分析は、固着という事件あるいは過程が欲動にとってどのような変化なのか、その意味をさっぱり教えてくれないままである。 もっとも、臨床のためだけならば、このような複雑な項目を全部解明しなければならないわけではない。外傷以前の子どもの生活であった、元来の幼児期の状況と、後に臨床的に成人の神経症の中に現れるようになる、その外傷に子どもが遭遇した時の状況とを区別できれば、それだけでいい。二つの状況は類似のこともあり、同一のことさえあるが、そうでなければならないわけではない。しばしば両者は互いに原因になり結果になるという関係にある。病像の中に現れる固着状況はありとあらゆる性的満足あるいは性的対象関係の形を撮りうるのであって、当然、前性器的あるいは自体愛的な形態もあってよいことになる。その一方、幼児期の状況、固着の起源の場、は例外なく対象愛に属している。しかも、この起源の場、すなわちその当時外傷へと導いた場における小児の対象への関係は、現在の生物学主導の理論から予想されるような、問題のない単純なものでは決してない。この関係が口唇的、あるいは肛門サディズム的あるいはあるいは男根的な愛の古典的な像にぴったり適合する場合でもそのことは変わらない。いわゆる“陰性エディプス・コンプレックス”でもことは同じである。もう少し深く状況の中に入り込むならば、必ずや、その前には妥協があった、すでに順応がなし遂げられていたという印象を持つのであろう。神経症を癒すだけのことならば(いやもう少し穏やかに表現すると問題の症状を取り除くためだけなら)分析をそれ以上深く行う必要は必ずしもないが、いかなる症例においても、疾病の基底を形成した不運な幼児期の状況には、まだ以前に先行する問題があり、その証拠も山ほどあるということを理解しておくのは何よりも大切だと私は思う。われわれが症状の表面的な軽減だけに留まらないということを目指すとすれば、この先行するものも分析されなければならない。