うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日の夜勤と、【視点を変えれば、幼児が貪欲なのではなくて対象と欲求充足とに絶対的な重要性があるのである。】


 今日は、夜勤ですが、法人の総会があったり、その前に、送迎者が動かないとのことで、呼び出されたりして、総会の一番大事な場面に居れませんでしたが
何とか無事に、総会を終えることができて良かったです。
 なので、夜勤時には、何も期待しては(笑)いませんでしたが、女性職員さんが帰宅したら、うたたね祭りが始まりました(笑)
まずは、いのうえっちが、玄関にある、ブランコをしているテディベアをブランコこと外してきて、皆さんに火をつけました(笑)



 名コンビの、まりちゃんと、たくちゃんがふざけ合い、みんなで、わーわー、ケラゲラが始まりました。

 段々盛り上がってきて(笑)玄関まで笑いが......。


 最初は、参加していたりえちゃんも、おっちゃんと一緒に、苦笑いしていました。

 ご心配なく!クールダウンしてから、皆さん入床されました。

 自分が最初に働いていた施設の利用者さんが多いですが、ここでは、他施設のショートさんが多いので、新たな出会いがあり、意外と変化を楽しまれています。



 朝、早めに出て、ファミマで本を読もうと思っていましたが、上述した件で早くに呼び出され、叶いませんでした(笑)
総会が終わって、有志の方々と昼食をご一緒させて頂き、夜勤まで少し時間があったので、着替えてファミマで結局(笑)読みました。

 空気の例えは、基底欠損の時にも出ていたように思いますが、当たり前になっていることは、本当になくした後でないと、気づかないものですね。
でも、その当たり前になっていることに、気づくこと、気づかせることが自分たちの仕事の様にも思います。


 夜勤に戻ります!


〜“口唇”という表現はこの種の非常に原初的な対象関係の、なるほど重要ではあるが、一面を述べているに過ぎないとは、繰り返し言われてきたことである。同じくらい重要な面も他にいくつかある。暖かさ、身体の触れ合い、馴染みの匂いと味などがある。一言で言えば適切な世話(ケア)と養育(ナーシング)である。生理学的にはもっとも適切な食事を与えても、十分にケアせずも特に十分な身体的接触がないならば、ふつう困った結果になり、逆に、食事はそれほど適切でなくても理解と献身的な世話で子どもを育てると子どもは元気になり発育も良い。したがって“口唇”どんなに言葉を文字通りに用いるのではなく、ただ比喩的な意味で、全体を表す(pars prototo)方式で用いるならば私も格別意義をさしはさめないだろう。だが、不幸にして実状はそうではない。
 私に同じく“貪欲”という言葉に毎日ことにも反対側しないわけにはゆかない。“貪欲”は状況を有りの侭に描写する言葉ではなく、主観的な印象を述べているにすぎず、それも成人型言語によってである。こども(私なりの患者なり)がわれわれ大人から貪欲に見えるのは、(一)欲求不満に陥ったり、強制的に待たされたりしたとき、非常に騒がしく、極めて大げさで激しい症状が現れ、そして(二)満足させるならば、さしはさめない二者はほとんど何も観察できなくなるが、これは満足というものが静かで穏やかなこれで酔いしれの状態をもたらすからである。そしてわれわれの理論は、創造性のものだと重視し、静かなものは重視しないから、すごく貪欲な幼児という歪んだ像が生じるのである(音を立てない徴候は、この理論のためにそもそも気づかれないということもありうるがとらあげられることが全くないのは確かである)。
 私の見る、どこかこの特殊な愛の形態においては、すべての要求を適切にそしてタイミングよく満足させることが決定的に重要である。幼児(なり患者なり)は対象にほとんど絶対的に依存しているからである。視点を変えれば、幼児が貪欲なのではなくて対象と欲求充足とに絶対的な重要性があるのである。対象と欲求充足との圧倒的重要性のゆえに、幼児の立場では譲歩はますます無理である。そのときの対象(object)は文字どおり一個の物(object)に過ぎず、またそのようなものとして扱われなければならない。すなわち、対象自身の利害や感受性や幸福を考慮したり尊重することはできないのである。対象は、あってあたりまえのものでなければならず、また実際そうなのである。
 この種の対象関係の格好の例は、空気の供給に対する成人の態度である。空気への欲求を満足させたからといって満足のサインはまず見られないけれども、だからといって呼吸を口唇性貪欲の表現だと考える人はいないと思う。ところが、空気が不足で窒息しそうになれば、非常に騒々しく派手で激しい症状が生じる。そのうえ、われわれは皆、空気の供給はあってあたりまえのことと考え、われわれ自身の目的のためにわれわれによって使われることを空気が好んでいるかどうかなど新瑞橋考えてみたりはしない。われわれの態度は単純である。われわれは空気を必要とする、だから、いつもわれわれのためになければならないのだ。