うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日の日中と、【なるほど、さらに発展しようと思えば、まず退行という代償を支払わなければならないということはしばしば、ひょっとすると必ず、そのとおりだろうが、この退行が世界をまずしいものにしなければならないと決まっているわけではないことは、われわれがみてき�


 今日の日中も賑やかで、2班に分かれました。
午前中は頂いた豆をみんなでむきました。晩御飯は豆ごはんになって出て来ました。
 自分は苦手ですが(笑)美味しかったです!
 利恵ちゃんは、まり子さんの応援です(笑)




 昼からは男子は昨日と同じメンバーで、すろーじゃむの湯に行きましたが、女子もついて来られ、まずは皆さんとイチゴ狩りをしました。
今日も沢山採れましたが、まつおさんが、全部持って帰るって....。うたたねにと思っていましたが、ご自宅に、でした(笑)
 無農薬・無肥料栽培なので、めちゃくちゃ傷みやすく、直ぐダメになるので、取り合えず冷蔵庫に入れて頂きました。


 女子は、まりちゃんは、いつもの如く(笑)寝ていましたが、利恵ちゃんは今日も元気で、先日、いのうえっちから教わった?いのうえっちダンスを、CDをかけて、踊っておられました!今日も一番元気です!


 入浴介助も終わり、少し時間があったので、ブドウの誘引・結束を行ってきました。
短い枝は、もう少し伸びてからですね。
 本当は、針金がもう一段必要ですが、農竹で何とかやります(笑)



 今日も早めに出て、ファミマで本を読みました。第3章まで進んでいますが、いつもの如く、自分には復習です。読み返すことで、少しは頭の中から消えて行くのを遅く出来ます。(笑)

 下記は、退行というと、負のイメージにとられがちですが、そうではない事を表現してくれています。
『なるほど、さらに発展しようと思えば、まず退行という代償を支払わなければならないということはしばしば、ひょっとすると必ず、そのとおりだろうが、この退行が世界をまずしいものにしなければならないと決まっているわけではないことは、われわれがみてきたとおりである。』
 利用者さんたちを見させて頂いていても、本当にそう思います。一度、原点に戻って、あたかも自分のアイデンティティを確認してから、新しい変化を受け入れて行く様子を見せてくれます。逆にそれを参考にさせて頂いて、自分のことを見つめ直せたりもできますし、他の方の支援にも、本当に役立ちます。
 それは、下記の『長老人』のように、「ほんとうにそうしたいと思うならば」ですね!


3 減数と新規蒔き直し
 〜死から逃れ、生存を継続するために、すべての生物はたえず新規蒔き直しをしなければならない。しかし、――と思うのである――この新規蒔き直しによって何が得られるのであろうか?その意味は何であろうか?生物学はわれわれに答えをくれる力がない。フェレンツィは科学のまったく別分野からアナロジーの援助をあおげばどうかと言った。これを彼は「ウルトラクィスティック」ultraquisticと名付けた。われわれは新規蒔き直しのある種類には馴染みがある。それは精神分析治療においてであって、これは、耐えがたいものとなっていた人生に新たな出発をするようにと患者を援助しようとするものである。どうやってわれわれはこれをなし遂げているのだろうか?硬直的な反応形式から解放することによって、患者を人生の新たな適応ができるようにしているのではなかろうか。たぶん、生物学的な新規蒔き直しにおいても似たようなことが起こっているのである。生物学者は、しばしば、核を指して、細胞の体制化の中心であるといい、代謝過程も、運動も、性的活動も、その制御をしているのは核だという。核の減数と細胞体制の単純化とは受精との密接な、関連において起こるが、あるいは、硬直的な反応パターンからの解放とみるべきかもしれない。この点からみれば、核の減数による新規蒔き直しと、精神分析治療によって得られた新規蒔き直しとは、類似の過程というべきだろうか。もっとも、根本的な相違が両者のあいだにはある。それは意識というものである。精神分析治療は意図的行為であるといってよいであろうから。 ここまでの探究は、基礎の確実な科学的事実を辿ってきた。ここからは空想である。系統発生における生物の変形は自己形成的autopasticな方式によって進行した。ある種の本能の満足の継続を妨害するような環境変化があれば、その種はその身体の構造を変えることによって新たな条件に適応した。このような変化のモデルとしてヒステリーを取り上げることができる。この場合には、ちょうど系統発生において変化した現実への適応が起こった時と同じように、身体を変えるのは強力な、充足されていないエスの欲望である。しかし、ヒトは、現実を扱うのに、もう一つ、よりよい方法を持っている。系統発生の過程で、ヒトは、別の器官、身体的には脳といい、心理的には「前意識」the preconsciousというものを創造し、このものの援助によって、ある程度望みどおりに環境を変えることができる。これを、自己形成的から「外界変容的」alloplasticな方法への切り替えが行われたという。われわれは今新たな進化段階を経験しつつあって、これが、つねにそうあるように、われわれを退行による前進に導いている。ヒトの前意識は、環境をおのれの欲望に適応させることができると感じているだけでなく、おのれのココロについても同じことを行う方法を模索しており、その一端は精神分析治療の中に現れている。もっとも、そのためには外部の援助が必要である。分析家の援助である。 精神分析治療は一種の雑種であって、同時に自己形成的でもあり、外界変容的でもある。ヒトに外的援助が必要でなくなる時がくると予見するにはさほど無理な想像力を必要としない。そうなれば、意識的と意図的に、身体と心とを自分によいと思われるように作り直すことができるだろう。この発想は私のものではない。私はバーナード・ショーを引用しているだけである。ショーの劇『メトセラに帰れ』Back to Methuelahはそういう人たちのことを詳細に描写している。彼はその人たちを「長老人」Ancientsと呼んでいる。彼らは非常な高齢である非常な賢者であり、まだ性的に分化しているが、性的欲望はもはや持っていない。そして彼らは自己を変化させることができる、「ほんとうにそうしたいと思うならば」。詩的幻想においても、この知識と能力とが高度の退行によって得られるというところが面白い。この「長老人」たちは隠者のような生活を送っている。服装をなおざりにし、たがいに交流もせず、口を利かず、実際に、話し方も部分的に忘れてしまい、ただ単に座って瞑想している。 われわれの未来の絵をこのように悲観的に描く必要があるとは思わない。なるほど、さらに発展しようと思えば、まず退行という代償を支払わなければならないということはしばしば、ひょっとすると必ず、そのとおりだろうが、この退行が世界をまずしいものにしなければならないと決まっているわけではないことは、われわれがみてきたとおりである。エロスは、配偶子母細胞運搬体を強制してもっとも原始的な性機能すなわち合体まで退行させたが、それからわれわれに愛を贈ってくれた、それもそのあらゆる多彩な形態を。ショーがかいま見たように、練り上げた英知と能力をあがなうためには、代償として深い退行を支払わなければならないということはありうるだろう。しかし、われわれの後に来る者はこの段階に留まらなくてもよい。そこから彼らは新しい人生を始めることができるのであり、それは、知識と能力が増大していても、なお、現在よりもなお豊かで色鮮やかで力強いものでありうるだろう。