うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日の日中と、【新規蒔き直し段階のいくつかの時期における分析者の役割は、多くの点で一次物質あるいは一次対象の役割に似ている。】





 今日は、日中賑やかなので、主任支援員さんは、休日でしたが、遅番で入ってくれました。
湖西市まで、朝から送迎があったので、浜松に外食に行きました。
 車中も、マックでも賑やかで、皆さん楽しそうでした!時間的にタイトだったので、直ぐに戻りました。


 みなさん大きなお風呂にと......。男子だけで行って来ました!
やっぱり大きいと皆さん楽しそうでした。




 本は、早めに出てまた、ファミマで読みましたが(笑)15分だったので、集中できるようになった時に、終わってしまいました(笑)
 今日も、早めに寝ようと思っているので(笑)書きたいことが沢山ありますが、自粛しています(笑)ただただ、眠いだけです。
 下記は、身と気が、引き締まる気がしましたので、最初にアップさせて頂きました。
『この樹立を可能性とするには、分析者がまず、目下生起しつつあるのがそういうことだと分かることが必要だし、それが今必要なものだと認めて、この希いを、治療過程の一部として受容することが肝要である。分析者の行動や解釈をもってこの願望の開花を押さえようとしてはならない。』





第二一章 欲求充足と対象関係
 一九三〇年代になって判りはじめたことは、新規蒔き直し期においてである患者は充足を求めてそれを受けるが、充足ということは顕著な現象ではあっても一度重要ではないことである。充足はある目的のための手段にすぎないようだ。真に重要なのは患者が愛憎の対象関係の複雑で硬直的強圧的な関係――当時は性格特徴と言われていたもの――から解放されて、より単純な、強圧性の少ない形の対象関係をつくり始めるよう手助けすることである。たとえば、第一例の場合、治療のヤマ場で患者は分析者を患者を刺激、興奮、抑止させる成人的対象だとは感じていない。でなければ、分析者の前で、育ちのよいうら若いお嬢さんがとんぼ返りを打とうなどと思いもよらないことだろう。分析者は、その面前で子供っぽい楽しみに没入してもかまわない、安心感できる対象と感じられていたわけである。ところで、このことを三人関係的なエディプス葛藤の言語で表現しても、エディプス期以前的な(口唇的、肛門的、男根的な)言語で表現しても大差ないだろう。それだけでなく、どの表現形式をとるにしても、この現象の多数の二次因子のどれか一つを叙述しているはずで、その点で間違いとはいえないだろう。
 新規蒔き直しの特異な雰囲気の特徴を一言で言えば何だろうか。私ドイツ語のarglos(ほぼ“気のおけない”に当たる)を借りてこれを表してみた。このことばはLust(一応“欲望・快楽”)やBesetzung(“配備、駐屯、備給”)と同じく、英語には対応語がない。辞書にはguileless,innocent,simple,harmless,inoffensive,unsophisticated,unsuspecting(ずるさがなくて、単純で、無邪気で、人をきずつけず、攻撃的でなくて、知的な気取りがなくて、気を廻したりしなくて……)といったことばの雲で訳してあるが、どの一つをとっても本来の意味を適切に表さない。だから、周囲から有害なものがおそらく一つも自分に向けておらず、同時に自分の中から有害なものが一つも周囲に向かっていない、という事態の構造を叙述することばが英語でも欲しいところである。分析用語集のたすけをかりれば、“両義性以前”(pre−ambivalent)、“被害念慮以前”(pre−persecutory)、“妄想症以前”(pre−paranoid)などのことばをつくることはできるだろう。しかし、難点は、これらのことばは、その時期の、単純な、信頼性にみちた、気を廻すことのない雰囲気を表現するのにふさわしくない知的な気取りの表さないことばである。転移の枠内においてではあるが英語患者は遂に一切の性格の鎧と防衛の鎧とを脱ぎ捨て、生きることはこれよりも単純で真実なものになったと感じるようになる。これは真の開眼である。

 新規蒔き直し段階のいくつかの時期における分析者の役割は、多くの点で一次物質あるいは一次対象の役割に似ている。分析者は存在していなければならない。分析者は高度に可塑性でなければならない。あまり抵抗してはならない。破壊不能性を示さねばならない。これは確かなことだ。また一種の相互滲透的超割渾然体の中で分析者とともに生きることを患者に許容しなければならない。最後の言い廻しはいささか滑稽にきこえることは判るし、この新技法をあてこする巧いジョークが沢山でてくるだろうと覚悟している。しかし、私がたしかに言語の発見以前の――いや言語発見の彼岸にあるといおうか――時期に属する体験を何とか言語化しようと腐心していることはいいたい。いや、言語の発見以前どころか、おおよそ、有効的物質という、一点の曇りもない調和体だけがあり、その中から対象が成立できる以前の体験である。 私の臨床体験によれば、分析治療中の退行、すなわち新規蒔き直しの第一相は、一次対象類似の構造を持つ対象関係樹立を目指すものである。この樹立を可能性とするには、分析者がまず、目下生起しつつあるのがそういうことだと分かることが必要だし、それが今必要なものだと認めて、この希いを、治療過程の一部として受容することが肝要である。分析者の行動や解釈をもってこの願望の開花を押さえようとしてはならない。 以上は状況で肯定面である。残念ながら否定面廻すこともいくつかある。〜