うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

増築工事と、たこ焼きと、すろーじゃむ畑と、【分析の場においてこの原始的なarglosな関係を象徴的に表現するものは、分析してとの身体的接触である。】


増築工事は、もう少しですね!後はトイレぐらいだと思われます。


 今日の日中とショートさんは、身体に障がいをお持ちの方が多くて、アクティブに動けなかったので、大清水のピアゴに行き、たこ焼きを買って来ておやつにしました!
みなさんたこ焼きが大好きですね。おっちゃには回って来ませんでしたが......。
 歩くのが大変な方が多かったので、他の皆さんは車で待っていただき、Kさんと取りに行きました。



 昨日、すろーじゃむに行った時に、今年初めてのイチゴが一つだけ出来ていて、こそっと食べようと思っていましたが、4名入浴介助させて頂いたら、すっかり忘れて戻って来ました....。次回行った時には、沢山出来ているでしょうか?



 ブドウも、大分伸びていて、花芽も出ていましたが、小さかったです。今年は適宜、肥料をあげて行かないとダメですね。



 本は、また早めに出て、ファミマで読んでいたら、夜勤明けの管理者さんが、居ると思ったんで、覗きに来た!と来てくれました。元気な方と話させて頂くと、こっちまで元気になりました。最近ふさぎ込むことが多いので、助かりました。

 本が中々進みません(笑)読み込み過ぎですね(笑)分からない箇所があると、ググリまくるので、キリがないですね......。


 この章は、本当に重要な事ばかりですが、下記が一番だと思いました。中井久夫先生の本にも書かれていたとの記憶がありますが、最近の医者は、患者さんの身体を触らないと言っていました。最近でなくても、自分が27歳の時に、虚血性心不全(働きすぎでしたがw)で倒れて、救急車で運ばれて、直ぐ近くのH病院に、入院しましたが、不定愁訴が中々治らず、院長先生が京大出なので、京大病院に何度か受診に行きましたが、全く身体には触れなくて、問診だけで済ますので、一回、何故身体に触れないで診断を下せるのか?とおそらく学生が沢山ついてまわっておられた先生なので、教授でしょうが、ああ、そうだ!といって、慌てて触診されたことを思い出しました。
 医療も福祉も自分の手を汚さないで、偉そうにしている奴は、いくら立派な肩書があっても、自分は見下させて頂きます。自分は死ぬまで現場主義で行きます!と、突然の表明(笑)
 自分達も、簡単な例でいうと、冷暖房や寝具・衣服を選ぶ時に、まずは利用者さんの末端である手足の先に触れてから、あれっと思ったらバイタルチェックしたり、それに見合った対処をさせて頂きますが、温度計や自分の体感だけで選択している方が多数いるので、びっくりしています。まずは、身体接触、まずは、身体記憶ではありませんが、それが基本だと思っています。
 最初に働かせて頂いた施設で担当を持たせて頂いた、オールド・オーティズムの方は、身体に触られるのが非常に嫌で、少しでも接近したら、身を翻すような体勢になっていましたが、毎日、おはようと言いながら、背中を少しずつ触れるようにしていたら、近づいても、そのままの姿勢で入れるようになられました。それは、耐性の問題だけじゃないか?と言われそうですが(笑)それも身体的接触がなせる業だと思います。表出の言語がない方ほど、どこかが痛かったりした時に、痛いとか、助けてとか言えるようにさせて頂くのが、自分たちの仕事ではないのか?と、初めて働いた施設で感じた思いを、まだ心の中に持っています。まだまだ完全には出来てはいませんが、諦めてもいません。


『分析の場においてこの原始的なarglosな関係を象徴的に表現するものは、分析してとの身体的接触である。』
『いちばん多いのは、分析者の手をとること、分析者の指一本を握ること、分析者の椅子に手を触れることである。この接触はまちがいなくリビドー性がある。時にはきわめてリビドー性が高いとさえ言ってよいだろう。しかもこれは治療の進展、不可欠である、そういう重要性が必ずくる。』





第二二章 欲求充足と対象関係
 臨床観察に戻れば、一部の患者においては退行がさきに述べた危うい状況、悲劇的状況の端緒となるが、そうとは限らず、別の一部の患者のねだりの場の雰囲気は打って変わったもので本章、冒頭付近で触れたように、退行は一回切りで、しかもそれがほんとうの新規蒔き直しと変じる。この時期を二、三回くり返す患者もいる。アンナ・O孃の場合はまた違って、この時期の体験に際限がない。一種の悪循環が生じ、患者の“ねだり”の一部が満足されると新しいねだり、“欲求”が、出現し、充足を求め、時には嗜癖類似状態に発展する(M・バリント、一九三四年、一九三七年、一九五二年)。この二つの臨床型の区別のための一方を良性、他方を悪性退行と呼ぶことがゆるされよう? むろん、はじめ私は悪性退行患者とは、本能と自我との強さの不均衡な患者であると考えた。自我は普通だが本能が強すぎる場合もあり、本能は普通の装備であるが、自我が弱体すぎて対応できない場合もあると思った。――私の理論が正しいと考えたが――悪性退行は限度を越えたけたたましい症状を起こすことでそれと知れるだろう。それは甘やかされた子供や重い精神病質成人に予期されるものと同一症状である。しかしこの予想はある限界内でしか正しくないと分かり、私は他の診断基準を模索しなければならなかった。〜


〜むろん、私の良性退行ないしは新規蒔き直しの二症例と、アンナ・O孃なる悪性症例とは多くの点で類似してはいるけれど、重要な相違点が一つある。それを症例に即して解説しよう。悪性型では本能の求めるところを充足させることを目的とする。患者の模索するのは一つの外的事件である。つまり患者の対象が行う一つが行動である。良性形では、患者はさほど外的行動による満足を求めず、それよりも外的世界を活用して自己し内面の問題に前進の途がひらけること、私の患者のことばを借りれば“自分自身に到達できるようになること”をそっと認めてほしいと希う。むろん、外的世界と対象の関与は必要だが、関与の仕方が根本的に違う。患者で期待する関与が、患者の内面生活に干渉せず、無用の撹乱を起こさない(重要な二点だ)ことはもちろんだが、患者の期待する関与とは主に患者患者が内面生活を持っていたこと、患者独自の個性を持っていることを認識することである。両形を対置して私は第一型を“充足を目的とする退行”と呼び、第二型を“認識されることを目的とする退行”と呼びたい。たしかにこの名はいずれも不正確ですっきりしないが、もっとよい名が思い浮かばなかった。 以上の臨床観察は、真の一次物質あるいは一次対象についての臨床観察(より正確にはそれらについての推定)と不思議に酷似したところがある(第一二章参照)。外的世界に事態、あるいは外的世界における行動によって充足を得るためには、すでに全貌を現した対象が、少なくとも十分発達した部分対象か、いずれかより成る世界の存在が前提となる。これは、患者が、ナルシシズム的、男根的、エディプス以前水準以下にそれほど深く退行していないことを意味している。精神分析の文献には、この時期に属する小児の願望、幻想、本能行動などがいかに激烈であるかを示す立派な報告が沢山ある。とくに、それはのあらかじめ外傷体験をこうむって、その直後あるいは若干の時をおいて重症神経症を発病した小児にいちじるしい。そういう小児の烈しい欲望や“欲求”に根ざした要請を満たすのはきわめて困難である。またそういう小児は、たとえば強迫的自慰のような、嗜癖類似状態を起こしやすく、性的誘惑に弱く、また容易に無視しえないこととして、アクティング・アウト型のヒステリーになりやすい素質を獲得する。さきに述べたとおり、一部の患者ではその要求が激烈すぎるため、その新規蒔き直しが真正なものかどうか私は疑わしくなったことこういう患者はすべてたったいま述べた類いの患者だとここに言い添えておこう。 認識されるための退行という、もう一型では、あたかも大地や水が己の体重を安じてあずける者を支え返してくれるように、患者を受容し支え荷うことを引き受ける周囲の人々のいることが前提である。ありきたりの対象、とくにごく普通の人間という対象とは違って、これらの一次対象あるいは一次物質は具体的能動的な働きかけをするとは期待されない。しかも、なおそれらは不可欠なもので、また陰に陽に、利用される役を引き受けてくれなければならない。さもなくば、患者はどんな自己変化にも失敗する。水がなければ泳げず、大地がなければその上を動けないように、物質としての分析者は抵抗してはならない。引き受けなければならない。あまり摩擦を起こしてはならない。患者をある期間受容。荷い、しかも、自分は潰れないことを示さねばならない。境界線は超えないぞとつれなく言いとおしてはならない。患者と自分との一種の渾然体の発生展開をゆるさねばならない。
 以上はすべて、患者に同意し、関与し、巻き込まれることを意味するが、必ずしも具体的な働きかけをする意味ではない。ただ理解と寛容だけでよい。ほんとうに大事なのは患者の内面つまりその心の中でさまざまの出来事が生じうる条件を創造し維持することだ。  分析の場においてこの原始的なarglosな関係を象徴的に表現するものは、分析してとの身体的接触である。いちばん多いのは、分析者の手をとること、分析者の指一本を握ること、分析者の椅子に手を触れることである。この接触はまちがいなくリビドー性がある。時にはきわめてリビドー性が高いとさえ言ってよいだろう。しかもこれは治療の進展、不可欠である、そういう重要性が必ずくる。これあってはじめて患者は前進できる。これなしでは、患者は、放り出され、見捨てられ、変化の可能性を奪われ、身動きならない感じを持つ。もっとも、すべてがそうなっても、“認識されるための退行”の際の体験は、実際には、充足のための退行患者や重症ヒステリー患者の体験に特徴的な絶望と熱情の混合物の性質は決して持たない。後者の治療においてしばしば出会う絶望的にまといつく形では、患者は正しく部分対象だけがある段階に退行していて、その一方、大きな不安が新規蒔き直しに不可欠な相互信頼的なarglosな雰囲気の成長を抑止している、と私は思う。部分対象への熱情的なまといつきとは、この関係の表現であり、同時にそれが伴う不安への防衛でもある。これは真の蒔き直しの時期にみられる身体接触欲求にある寛ぎとは実に対蹠的だ。〜