うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

田植えと、アコースティックギターの弦と、【さらにはかの有名なヒステリー性転換症状も、種の進化における退行のモデルになる。】


 こちらの地域では、ゴールデンウィークの前後が田植えの時期ですね。
田圃を見ると、夏を感じます。後、ひと月もしたら、ホタルが見られそうですね。

  今日は、休みでしたが、少し大変な方のショートの明けだったので、早番のお手伝いに入りました。
そんなに大変ではありませんでしたが、基底欠損水準の方々には、一次愛が、と思っていますが、一次愛を与えるには、その方々の対象として、その方々に認識して頂かないといけないので、まずは認識して頂けるようにしないといけませんね。認識されるようになるには、ウィニコットのいう、ほどよい母親を、認識して頂けるまで、粘り強く演じて行くことしかないように感じます。そのやり方は、日々その方を見させて頂きながら、考えて行くしかありません。その方のニーズ・ニードに沿うようにしながらも、強く寄り添わないように気を付けることも忘れずに、ほど良い距離間を保ちつつ行います。
 今回のアップとは、関係がなかったですが、早朝に支援をさせて頂きながら、ふと感じた事をメモ代わりに(笑)書き留めてみました。


 今日は、非常にバタバタしていて、自転車で自宅と現場を3往復しました。
事務仕事も自宅でやりかけで(笑)現場に呼ばれ一つ解決したら帰宅して事務仕事して、また呼ばれ(笑)、まあ、呼ぶのは親分ばかりですが(笑)休みなのにこき使われています(笑)。
 途中できちんとした事務仕事は諦め(笑)ギターの弦を3カ月ぶりに(もっとか?)張り替えました。ダダリオからアニーボールにしましたが、案外自分のギターにはダダリオがあっていて、張り替えたら、ちょっと残念な感じがしたので、もうひとつ一緒に買ってきた、定番のマーティンを使ってみてから、どれにするのか考えようと思っています。3か月後でしょうか(笑)。

 エレキは、もう何十年もアニーボールです。





 本は、昼食を自宅近くのファミマで頂きながら読みました。第8章まで進み、そうだったのか、と思いながら、わくわくして(笑)読ませて頂いています。 

第二章 自我欲動のエロス成分についての二覚書(一九三三年)

1 適応と教育可能性 今述べた順列を生物学的に眺めれば、最初に来るのはほぼ自動的に生起する過程であって、これを最高の適応をしているものとすると、末尾に来るものは、適応のためには訓練が必要な機能であり、したがって元来は適応性ができていなかったものである。適応性ができていないということが、外的事情の(文化による)変化のためであっても、それは二の次の問題である。外的情況にまだ適応できていないということが問題なのである。まだ順応過程の中途で停滞しているということである。最初のあたりのものはすでに胎内生活において(心臓の拍動、筋肉の部分的運動)あるいは出産直後に(呼吸)行われ、しかも事前の教育が不要である。しかし、順列のこれより後のものは学習が必要である。この相違は完全に厳密ではない。呼吸をすることを学習して身につけなければならない児童も多い(母親の過失ではないのに窒息を起こす児童である)。これに対して、生まれてくる時すでに指を口コミにくわえてくる子もいる。 要するに、適応の前提条件はその自我欲動のエロス化であるといえないだろうか。このエロス化は、適応の仕事に残しがある限り、存在して働きつづけるものである。適応が成るとエロス成分は徐々に消滅する(おそらく他の箇所に転用されるのであろう)とともにその自我欲動機能は教育可能性を失う。硬直的、自動的、反射的になる。 このようにみれば、議論のやかましかった「定向進化」Orthogenesisの問題も理解できるようになる(解釈できるようになるということだ)。進化の方向がそのエロス部分を失うといえないそれで以て生体全体に、さらに生体全体を介して現実と結びついたものがなくなるわけで、以後は現実を無視して、内在する力のみによって直線的に進化するようになり、ついには奇抜な格好になってしまうことにもなる(いつも例に出されるのは滅亡動物の「雷犀」Tianotheriumやアンモナイトだが)。極端な場合には、このエロス成分の喪失によって(ということは現実への愛を失うことであるが)適応能力を失った余り、その種が死滅するということにもなりかねない。 この事情は、また、精神分析学があらゆる自我欲動にエロス成分を発見してきたのはどうしてかということをも説明してくれる。エロス成分比は、欲動が(系統発生的に)最近のものほど大である。反射というものが生まれたのは、そのエロス成分がほぼゼロになったからであるというのもありえないことではない。そうだとすると結びついた、かねがね探し求められていた「純粋な死への欲動」reiner Todestriebも反射を探すとあるかもしれない。周知の擬死反射が、ひょっとすると道しるべになるかもしれない。 原理的には、全く(あるいはほぼ)脱「性」化した自我欲動機能が退行的にエロス的(すなわちリビドーの)再備給を受けることもないとはいえない。私の見解では、これが心因性器質疾患psycogene organische Krankheitenの成立機制である。この証拠を提出するのはむつかしいことではない。感情興奮の際の脈のリズムの変化、期外収縮心因性喘息あるいは飲食排泄機能などの領域にきわめて多い「器官神経症」がそれである。だからこれらの例もなりかねない。さらにはかの有名なヒステリー性転換症状も、種の進化における退行のモデルになる。ヒステリー性転換においては、系統発生の過程ですでに脱「性」化されてしまっていた自我機能に対して「エス」の強烈な、満たされていない願望がリビドー備給を行う。これと違って、種の進化においては、まだエロス化されていなかった自我機能がリビドー備給を受けるのである。 分析治療において、ヒステリー性転換に至るようなエロス的備給は撤回され、他の箇所に転用され、より現実原則に沿った形で使用される。これが、分析終了後、患者が一般に症状産生能力を失う理由である。理論的には、彼らが症状産生をして行く理由はない。症状形成の機制が意識できるようになったのだからといって思うがままに、やすやすと、適宜に、しかも安全に起こしてもいいはずであるのに、できなくなるのだから――。 もっとも、例外のない法則はない。それができる人もいるという報告がある。いろいろな処方がある。ヨガ、禅、イグナチロ・ロヨラの霊操exercise spirtuelなどの処方は、ありとあらゆる、われわれ平凡な人間には統制できない身体機能を意識の支配下に置くことを目標にしたものである。これは、アレクサンダーが述べているように、対象リビドーを自己愛(ナルシシズム)リビドーに大々的に変換することによって可能となるものであって、分析治療の目指すところとは互いに直角の関係にある。これは、両者の最終結果が非常に異なることを説明するものであろう。〜