うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

平茶碗と、シルクスクリーンの枠と、【かりに一部の患者ではこちらが消耗してしまうほどの長期間を要しようとも、この悼みの時期は自然の成り行きどおりに経過するようにしなければならない。非常に大切なのはこれである。】


 今日は、シフト変更で早番と事務になりました。
そろそろ決算が上がってくるので、総会の準備に入りました。
 早番が終わり、送迎もあり、それが済んでから、今日は事務仕事が3人だったので、自分は自宅でやっています。
バタバタした心を落ち着けるために、シャトレーゼで、今日までの賞味期限の柏餅を買って来て(笑)暑かったので、平茶碗で点てました。
 すっと心が落ち着いたので、ガンガン事務仕事を片付けています。
事務所の方々は、来客等で仕事が中々手に着かなかったようです。


 大家さんが、シルクスクリーンの枠の見本を作ってくれました。しっかりした枠なので、安定感があります。
これで1,000円!安いですね!


19時過ぎに、今日の分の事務仕事が何とか終わったので、現場を覗きに行きましたが、主任さんが少し残って明日から連休が始まるので、帰宅準備などしてくれたと、夜勤者が話してくれました。明日は夜勤ですが、早番のお手伝いをしてから、自分の受診に行って来ます。

 本は、6時にファミマに行き、30分くらい読みました。
一次愛の方も大分進みましたが、後2回、基底欠損をアップさせて頂きます。同じようなことが繰り返されていますが、それだけ大事なことだと思われますし、今回も前進しています。

 知らない間に、5月になっていました......。


第二六章 深淵に架橋する
 第一四章で述べたとおり、“患者の内なる小児”とその分析者たる成人間には双方を分かつ深淵があり、基底欠損水準に退行した患者は一般に自力でこの深淵に架橋しえない。あの章で私が設問したように、架橋作業はどの部分を分析者側が企てるべきで、どの部分を患者側にゆだねるべきであろうか?いかに架橋すべきかというこの問題への答の第一は標準的な答で、患者が分析者になにを求めるかを分かること、である。分かったとおりを退行患者に伝えるのに必ず解釈によらねばならぬことはない。決して解釈を利用してはならぬ時さえある。理解の伝達には、患者の求める雰囲気を創り出せばよい。これには患者の、分析的な意味での“アクテング・アウト”を寛容に受け入れ尊重することも含まれる。また、特に、患者を急き立てて患者の非言語的表現を直ちにエディプス的言語形態に変換するように強制しないことである。分析者のするべきことと私の思う内容を試しに前章に要約した。私の発想の正しさが証明された暁には、患者の苦悩に乗せられた分析者がもっと患者にしてあげようとした時必ずやってくる多数の困難の理由は、私の発想で説明されるだろう。 特に、今問題にしている状態に対処している分析者が忘れてならないことは、大局的にみれば、鋭い正確な解釈による切り込みで防衛を突破したり分裂を取り消そうとしてひならないことである。そういうことをすれば、退行患者は自分の悲哀、自責、鬱憤の真実性と正当性とに不信の眼を向けられたように感じかねない。で、分析者は、そうはしないで、患者の愁訴、自責、鬱憤をすべて現実であり真実であるとして誠実に受容し、患者の荒んだ鬱憤が悔恨に変化するまでの時間的余裕を十二分にとるべきである。この過程を速めようとして、たとえ正しい解釈でも、解釈に訴えることはするべきではなく。不当な干渉だ、患者の愁訴の正当性を低めようとすることだ、と患者に感じても無理ない。だからである。またそうなれば、治療過程は速まるどころけ、解釈のために進行が鈍るだろう。 まこと、患者には「悲哀と増悪抜きの人生は生きるに値しない」と感じている者もある。裏返せば、おのれの悲哀――とそれと連動していた増悪――の全体に相当する分の補償を貰えない人生など生きるに価しないと感じていることである。この悲哀に新しい光を当てようとしてどんな解釈をしてみても、こういう患者にかかると、治療者が悲哀の価値を切り下げを図っているように感じられてしまう、解釈しようとすることは、すべて、患者が生きていることの正当性を奪おうという脅威と感じられる。「代わりの生きる目的を自分は持っていない」――患者は本当にそう感じている。


 かりに一部の患者ではこちらが消耗してしまうほどの長期間を要しようとも、この悼みの時期は自然の成り行きどおりに経過するようにしなければならない。非常に大切なのはこれである。この過程は基底欠損領域に属する過程で、したがって明らかに患者ひとりではこの悼みの時期を荷いとおせない。分析の場のような二人関係の枠組みの中ではじめて荷いとおせるものだ。分析者がこの悼みのための時間を焦らずに十分長くとり、またその間、必須の原初的雰囲気を寛容と干渉的でない解釈とでもって維持できるならば、患者の分析者との共同作業の仕方は以前とは少しずつ変わってくる。それは、まるで、患者が対象との関係における自己の位置づけを進んでやり直し、自己の周囲の、魅力を欠き冷淡なことの少なくない世界を受容できはしないかと考え直そうとし、またその力が出てきた気がしはじめたことを思わせるような変化である。〜