うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

ニューサマーオレンジとデカレモンと、【現実に患者の当面の欲求に過不足なく対応する距離でなければならない。】


 今日の日中は、賑やかで、2班に分かれました。おっちゃん班はドライブと外食班。
帰宅時間や体の状態で分かれました。
 トイレ休憩に寄った、産直で小夏みたいな物が売っていました。小夏が大好物ですが、さすがに仕事時間に買うわけにはいけないので、自粛しました(笑)
小夏は、出回る時期が短いので、それと同じなら、今度行った時には、ないかもです......。

 甘夏くらいの大きさのレモンも売っていました。普通に酸っぱいのでしょうか?
こちらは、見ているだけで唾液が出て来ました(笑)
 携帯を車に忘れて外食などしたので、写真が写せませんでした....。




 今日は、一次愛の方を、早めに出て読みましたので、アップは貯金です(笑)
第25章と第26章だけ読めば良かったのかも知れませんが、全部読んだから、この二つの章の意味が分かるのかも知れませんね。
 全て大事な文章に思いました。

 下記は、距離感と言う、現場でも非常に重要なことです。ほどよい母親と同じ意味のように感じました。
どうしても情が入ってしまって、距離感が近すぎてしまう場合がありますが、それは周囲のきちんと現場を理解している(これが重要です)他の支援者に意見を求めるのも大事なことですね。
『ただしそれその現存は、患者に感じられなければならないだけでなく、いつも正しい距離で感じられなければならない。遠すぎて患者が自分は見捨てられたと感じてもいけないが、近すぎて患者がわずらわしく不自由に感じてもいけない。現実に患者の当面の欲求に過不足なく対応する距離でなければならない。』


 下記は、難しいですが、笑わすのと、笑われるのはちがうんや!という、(笑)大阪人のお笑いの奥義に通じる感じが、勝手にしました。
冗談は置いておいて、このように、本当に理解し、行動できれば、利用者さん達の生きづらさも軽減できるように思えますが、中々奥が深そうですね.......。
『むろん、患者に一箇の“一次対象”を差し出すことは一次愛を与えることではない。そもそも母親は一次愛を与えなどしないように母親ならばどうするだろうか。母親は真の一次対象として行動する。すなわち一次愛によって備給されるべき一次対象として自らをさし出す。“一次愛を与えること”と“一次愛によって備給されるようにと自らをさし出す”こととは違う。この相違が根本的に重要なのは何も退行患者を相手にする時の分析技法だけでなく、困難な治療状況における技法の多くの場合でも同様である。』



 下記は、一次愛・一次対象がその方に再体験できるような環境設定をしろ!という意味でしょうか?ここまで来ると、禅の世界の様な気がして来ました。『無学』!
『角度を変えて、つまり別の“言葉”を用いて、この役割を叙述しよう。問題の時期の間じゅう分析者は時間と環境の整備供給者という機能を果たさなければならないのでといっても、分析者は義務的に患者の幼少期の愛情剥奪を代償し、患者の両親が元来与えた以上の配慮と愛情と庇護を与えるべきだという意味ではない。(分析者がそんなことをしようとすればまず失敗するだろう。分析者がしなければならないのは、(できるとしても定期の)治療者自身からのものを含めた意味での外的誘惑・刺激・要請が一切立ち入らないような時間を患者のためにたっぷり準備し供給することである。』 






 患者が基底欠損水準に退行している間の正しい技法とは、分析の場における“アクテング・アウト”そのものを内容のあるコミュニケーション手段として受け取ることであり、これに解釈を与えて急いで”構造化しようとしてはならない。強調したいのは、これか何も、この時期においては分析者の役割はないも同然であるとか、好意的受動性に限られることを意味しない。事態はまさに逆であって、治療者が現存していることが最大限に重要である。ただしそれその現存は、患者に感じられなければならないだけでなく、いつも正しい距離で感じられなければならない。遠すぎて患者が自分は見捨てられたと感じてもいけないが、近すぎて患者がわずらわしく不自由に感じてもいけない。現実に患者の当面の欲求に過不足なく対応する距離でなければならない。これは一般論だが、分析者の欲求が何であり、どうしてそれが欲求となっているのかを知り、また欲求の消長と変化の理由なども知っていなければならない。 角度を変えれば、こういう場での技法問題とは、患者にとって一次対象の機能を果たす“あるもの”を提供するにはどうすればよいか、である。一次対象といったが、適切なものなら代用品でもよい。これは、換言すれば、患者がその一次愛を投影しうるものであればよいということだ。 この“あるもの”とは何でなければならないか?分析者自身(退行の治療を企てている分析者)か?治療の場か?要は、どちらが、患者とよく調和し、患者と当面自由にできる一対象との間の利害衝突を最小限に喰い止められる公算が高いかである。分析者がきわめて重要な、全知全能の対象に化する危険が少なくなるからである。
 むろん、患者に一箇の“一次対象”を差し出すことは一次愛を与えることではない。そもそも母親は一次愛を与えなどしないように母親ならばどうするだろうか。母親は真の一次対象として行動する。すなわち一次愛によって備給されるべき一次対象として自らをさし出す。“一次愛を与えること”と“一次愛によって備給されるようにと自らをさし出す”こととは違う。この相違が根本的に重要なのは何も退行患者を相手にする時の分析技法だけでなく、困難な治療状況における技法の多くの場合でも同様である。
 角度を変えて、つまり別の“言葉”を用いて、この役割を叙述しよう。問題の時期の間じゅう分析者は時間と環境の整備供給者という機能を果たさなければならないのでといっても、分析者は義務的に患者の幼少期の愛情剥奪を代償し、患者の両親が元来与えた以上の配慮と愛情と庇護を与えるべきだという意味ではない。(分析者がそんなことをしようとすればまず失敗するだろう。分析者がしなければならないのは、(できるとしても定期の)治療者自身からのものを含めた意味での外的誘惑・刺激・要請が一切立ち入らないような時間を患者のためにたっぷり準備し供給することである。何のためにだろうか。患者はそれはそれとしながら、自己を発見受容し、自己に対処するためである。さらに、患者が患者なりに対象世界に至る道を発見するように持ってゆかなければならない。深遠な正しい解釈などによって「正道はこれだ」などと指示せずに、である。以上のことができれば、患者は対象が自分を打ちのめし圧えつける感じを持たなくなるだろう。分析者がより良質の、よりよく“分かってくれる”環境をしつらえるべきだといっても、この範囲内、この方法に限られる。世話、愛情、注目、欲求充足、庇護を増大させる形式は特によくない。今このように考えておけば、それは患者のいうままの“強請”と“欲求”を充足させるべきか、それともそのことを認めつつ患者を欲求不満のままにとどめておくべきかを決定する基準として使うことがあるだろう。