うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

本が来たと、【とり込みと理想化はどんなパートナー関係においてもあるようで、頭を押さえられた弱いパートナーが圧倒的に強力なパートナーに抵抗しようとして用いる、もっとも頻度の高い二つの防衛機制である。】


バリントとフレンツィの本が来ました!
基底欠損をもう少し勉強したいと思いました。ちょい読みしましたが(笑)今のバリントを頑張って読み終えます。後、4分の1です。

 今日は、早番のお手伝いをさせて頂き(大して役立ちませんがW)、昼食をファミマで摂ったので、その時に読みました。
下記は、貯金の切り崩しです(笑)ちょっとショックでしたが、第四部から、ことの真意が見えて来ます。最近、報道でも世間でも、一つの場面だけ切り取って、討論、批判等されていますが、やはり、全体を知らないと批判できないな、とこの本を読ませて頂いて余計に思うようになりました。


 今日は、重度の方の夜勤明けで、夜勤者と少し話をしました。彼女曰く、まだ、重度の方の支援をする自信がないと、言われていましたが、傍から見させて頂いていると、きちんと出来ているのにと思います。自分の事を知らないのも、自分かも知れませんが、その自信のなさが、利用者さん達にも移ってしまうので、『武士は喰わねど、つまようじ』的な表現が必要な時もあります。下記を読み返していて、その会話を思い出しました。
この感銘はどうやらクライン派の患者も抱くようだ。とすれば、分析者のこの態度がクライン派の患者の連想内容には実に多量の攻撃性と羨望と憎悪が出てくる理由の一つになっていないだろうか。また、患者がとりこみと理想化に専念する理由の一つではあるまいか。』


 下記は、現場でも気をつけないといけない事のように思いました。利用者さんのニード・ニーズに応えるのが、自分たちの仕事なので、途中であきらめては元も子もなくなってしまいます。まあ、状況にもよりますが、日中と夜間との連携が本当にきちんと取れていないと大変なことになります。例えば、睡眠障害のある方が、日中寝ていては夜間見る方は堪ったものではありませんね.......。
『しかし、早晩患者は必ず同一種の訴えを持って帰ってくる。基底水準に退行して、患者に対してこの技法をとろうとすれば、治療者は患者の非難告発を“それはどうでもよいこだ”と却下する感じか、今から賢明深遠な解釈によって効率的に解消させようとしている感じかどちらかの感じを与えつづけなくてはならない。』
 本当に色々考えさせてくれ、また、勉強できる本です。




〜さて以上のようなことが原因する?からみれば、クライン派の教育法は実践可能性範囲内でもっとも優れた方法であるとか、一時期“マッド”にみえた成人言語の普遍性が証明されたとか、いえるだろうか?こういう問題の立て方をしたことで答えはおのずと決まっていた。クライン派の方法では効果的だが絶対的に正しくはなく、クライン派の言語はコミュニケーションに役立つ一方で普遍的ではなく。それだけでなく子供と患者がこの言語習得中に似た行動を示す事実は、そういう学習仮定が大部分とり込みと同一視によることを示唆する。そして患者の場合も子供の場合も、どこか無批判なとり込みでの同一視でなかろうか、と疑問をさしはさんでも失礼でないだろう。いずれにせよ、クライン派以外の者がクライン派の教育分析を受けている者を(学習過程中および過程終了後)観察すればその印象を抱く。この印象を強化するのは、クライン派の者ならかなり画一的に行う奇異な行動である。クライン派は皆、自分たちは“エディプス段階以前”さら“言語以前”の現象を叙述するのに全体として適切な一言語を所有しており、さらにこの言語の確実な使用基準すなわちいつどこでどのような解釈を下すのかの基準、持っている、と信じて疑わないようである。クライン派の解釈を学会で聞いても文献でみても、自信にみち、知識豊かで、多分堂々たる分析者が出した解釈だろうな、という感銘を受けるが、この感銘はどうやらクライン派の患者も抱くようだ。とすれば、分析者のこの態度がクライン派の患者の連想内容には実に多量の攻撃性と羨望と憎悪が出てくる理由の一つになっていないだろうか。また、患者がとりこみと理想化に専念する理由の一つではあるまいか。


〜ここでは、片方が、絶対に整合的に言語を用い解釈を下す、自信と知識に溢れ、おそらく堂々としているであろう分析者で、もう一方が、分析者の一見“マッド”な言語を学ぶか援助を受ける希望を捨てるかの二者択一しかないのであるのは奇妙な不平等で、この奇異な不平等こそ分析治療がすでに基底欠損領域に達している重要な兆候だと指摘するにとどめよう。クライン派技法は基底欠損という現実を認めつつも、それをいわば患者自身の誤謬のせいにする。患者は自分が内面化した対象に対して幻想の中で誤謬を起こしたというのである。〜


〜どんな型の整合的改善にも内在する危険にはもう一つある。患者の訴えや非難や告発が漠然として個別的事物に明確に定着できない場合でも、患者が訴えをしていること自体の“分析”はたいてい可能である。現実になにを訴えているかにお構えなしに“分析”を行って、ある期間患者が訴えないようにすることさえできないわけではない。しかし、早晩患者は必ず同一種の訴えを持って帰ってくる。基底水準に退行して、患者に対してこの技法をとろうとすれば、治療者は患者の非難告発を“それはどうでもよいこだ”と却下する感じか、今から賢明深遠な解釈によって効率的に解消させようとしている感じかどちらかの感じを与えつづけなくてはならない。