うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

イースターエッグと、【しかも基底欠損水準では、自分の本能的欲求が少しでも間違って受けとられると患者はこれを大悲劇だと感じ、かつて基底欠損を生起せしめた手ひどい幻滅が全部心に甦ってくる。】


 今日は、名古屋に、アレクサンダー・テクニークを受けて来ました。
毎月、この月はどうでしたか?と聞かれる度に、自分の生活が......(笑)これ以上は、言えません(笑)
 会場がキリスト教系なので、イースターの飾りがまだ残っていました。今年は4月1日でしたね。
基本的に春分の日の後の最初の満月の次の日曜日に祝われるので、年によって日付が変わる、移動祝日です。4月いっぱいは飾ってあるのでしょうね!
 イースターエッグも素敵でした。

 今日は、眠くて(笑)意欲的になれず、何を教えて頂こうかと、先生と一緒に考えていたら、先日、椅子を使った、古典的なものを思い出し、それをご指導頂きました。
不思議ですが、先生に首のあたりを、軽く支えて頂いていると、本当に肩や首が楽になります。古典的なテクニークは、茶道の割り稽古のように感じていたら、先生も茶道に関係のある動きだと思いませんか?と仰っていました。正しく、割り稽古ですね。
 電車の中で、半分寝て(笑)半分バリントを読んでいましたが、一次愛というのも、先生が口酸っぱく言われる、自分の周囲の物を、空気の存在まで感じながら動く、というのがそれに当てはまるような感じもしました。無意識に母乳や哺乳瓶で栄養を赤ん坊に与えているお母さんのようですね。一次的な物には輪郭がない、とバリントが書いていたように記憶していますが、それもそのまま、先生が口酸っぱく言われているものと同じように感じました。空間の中にいながら、空間に溶けだしてしまいそうな、その気持ちの持って行きようが、きっと一次的なものなのでは?と、ぼよ〜んとした頭の中でそう感じていました(笑)


 本は、電車の中で、読み終わるはずが、半分寝てしまい(笑)終わりませんでした。
今は、24章を読んでいるので、結果をしってしまった、サッカーや野球の試合みたいに、読み返している自分がいますが(笑)、気を引き締めて、復習させて頂きました。


第一八章 退行の管理に内在する危険 〜たとえば、ウィニコットによれば、いちばんよくみられる結果は、自我における一種の分裂である。誤った扱いへの反応の際、おそらくよそよそしく圧倒的な、あるいは無力な周囲をとり込むことによってであろうが、一種のニセ自我、ニセ自己が出現して非同情的な世界弁当対抗を試みる。このに自我はきわめて能率よく作動しうるもので、人生の多くの面で成功することもある。しかし、真の、というか現実の自己に至る道を閉ざすので、真の自己は現実と接し得ず、未熟のまま残る。その結果、人生は儚く空虚で不幸だという感情が生涯つづく。 この派は、いま述べたように、自らの危うさを感じている個人と、自分にとって強きにすぎるとその個人が感じている環界間の正しい“適合性”に重点を置く。真の自我は普通、きわめて未熟で現実問題の取り扱いがきわめて不馴れなので、しばらくは真の自我を世界の側からの要請に襲撃されないように庇護し、同時にこの要請とその人の能力との媒介手段を模索しなければならない。この意味で、いかなる“適合性”の欠如も、かつて“職務代行者”として効率よく機能していたニセ自己の復権に終わるかも知れず、そうなれば真の自己に有害である。看護、防衛、媒介、後見などよりなる、非常にきめ細かなこの仕事は通常管理と呼ばれ、基底欠損水準の分析治療において、共感的傾聴、理解、解釈ほど周知ではないけれども、後者に加える必要のある、いやおそらく後者よりもさらに基礎的な作業である。 “退行”を許容されることは患者にとって自分のニセ自我の行う“職務代行”にたよる安全保障をあきらめることになる。しかし、分析者が退行を承認し、“退行の管理”によってニセ自我の“職務代行”を引き継ぐことさえできれば、解釈が真の自己に到達し理解され受容される雰囲気を創造できるように思われる。明らかに、分析者による“管理”と患者による退行とは相互に対応している。換言すれば、退行患者、すなわち管理が不可欠なのは一時自分の成人的な、おそらくはニセの、自己の、保護を捨てた者のみである。
 〜分析者と患者間でもある意味ではこれがあてはまるだろう。治療の高揚期には分析されることと分析することとはほとんど同一事態であり、治療関係の中で退行患者に外傷以前の発達初期体験を反復させ、患者が今後原外傷の反復を避けつつ基底はの完全治癒に至る新発達路線を発見するまでこの雰囲気維持が可能なほどみごとに、治療者が一次対象の働きをなしうるか、現実に一次対象と化しうるかとなると、これははなはだ疑わしい。この種の事柄は計画を樹てる方が計画をやりとおすよりもやさしいのは明らかで、何を求めての患者の欲動かを全部的確につきとめることは、きわめて感度と鋭敏な共感的分析者の能力を越えた課題だが、それは、いくら退行がはなはだしいといっても成人の欲動の求めるものが幼児より複雑なためであろう。しかも基底欠損水準では、自分の本能的欲求が少しでも間違って受けとられると患者はこれを大悲劇だと感じ、かつて基底欠損を生起せしめた手ひどい幻滅が全部心に甦ってくる。