うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

タケノコと、変なキノコと、多肉植物と、【危険の原因がすべて、基底欠損領域内の現象に対する治療者の反応にあることも強調されていない。】


 今日は、自分の受診でしたが、帰宅したら、親分が今度のカーグでタケノコを描くので取りに行くというので山に行きました(笑)
食べれそうなものは、そのままにして(笑)伸びすぎた、固そうな物だけ頂いてきました。
 皮が付いたまま、縦に切ると言っていましたが、固いので切れるでしょうか?切れるなら、きっと食べれますよね(笑)でも、きっと無理(笑)

 タケノコを探していたら、変なキノコがありました!毒がありそうで、怖くて触れませんでした(笑)

 その勢いで(笑)、伸び放題になっていた多肉植物の整理をしてみました(笑)事務仕事が沢山ありますが.....。
市役所から提出した書類が間違っているとのメールが現場の職員さんからあり、慌ててその書類(一枚だけですがw)だけやって、直ぐに持って行きました。
 暑くなっ来たので、1ヵ月くらいしたら、しっかりと根付くでしょうか?






 本は、受診待ちに読みましたが、アップは先日読んだ箇所です。

 下記の2つは、ちょっとショックでした......。非常に期待しながら読んでいたのに.....っていう気分になってしまいましたが(笑)読み続けてはいます。
それだけ、基底欠損水準領域というのは、難しいということを言いたいのかも知れませんね。

『ありうべき誤解を避けるために、基底欠損水準まで退行した患者を相手にするのに直面する技法問題はまだ論じていないことを言っておきたい。』
『この主題の文献において強調不足なのは、とくに退行が基底欠損水準に達した時に、退行患者と治療者とをへだてる深淵の架橋を試みる治療者を襲ういくつかの議決権の存在である。』


 下記は、自分達も気をつけないと、全て障がいを持っておられる方の能力がないから、悪いからと投げ出さないように、と言っているのだと思い、読ませて頂きました。
現場でも、フロイトの古典的と言われるやり方が合っておられる方もいるし、クラインやクライン派の方々のやり方が合っておられる方も、ウィニコットや、飛んでw対人関係論のサリヴァンのやり方が合っておられる方もいるので、自分たちは、それぞれの理論を読ませて頂き、その方に合ったやり方を選択して行かないと何も前に進みませんね。
 自分的には、現在はクライン派ウィニコット(ある面クライン派かw)をごちゃまぜにした、勝手なwやり方で何とかやり過ごせているので、それはそれでいいのかな?とも思っています。勿論、それぞれの理論をその方に合ったやり方(主観的ですがw)を選択させて頂いています。失敗もあるけど、バリントのこの本の最初の方に出ていた、その失敗を患者さんは許してくれるし、それを利用する、って書いていました。その代り、失敗したらご本人さんと、ご家族にはその旨をお伝えします。
ノースカロナイナに行った時も、重度の方ほど、最初は失敗するものだ、とはっきり言われていましたが、下記は、これに従っているのではないのか?と思えました。障がいがあろうが、なかろうが、同じ人間なので、言語では伝わらなくても、愛情と言うのは、必ず伝わります。必ずです!それが答えとは考えてはいませんが。

『危険の原因がすべて、基底欠損領域内の現象に対する治療者の反応にあることも強調されていない。』




〜知的に悪ずれした患者――分析者もだが――は、間違ったものあるいは失って取り戻せないものをペニス羨望です、乳房です、という。ふつう、魔術的性質を帯びて感じられるペニスや乳房のことだ。また、ペニス羨望です、乳房羨望です、去勢恐怖です、という。ジョウンズ(一九二七年)の性欲奪取(aphanisis)もこの部類に入る。メラニー・クライン(一九五七年)の生得的嫉妬羨望という観念も同じである。しかし、ほとんどどの症例でも、こういうことは皆、もし失ったものが復元されない限り自分は決して満足しないだろう、発狂や死の方がましだ、という消しがたく抗いがたい感情ときりはなせない。 分析の場で観察される退行現象はすべて、何とも原始的な感じで、幼児期初期の行動を思わせるので、神経症・精神病はすべて必ずどこか幼児的な面を持っており、精神療法者はつねに“自分の中にいる子供”に何らかの方法で対処しなければならない――この命題を支持する強力な論拠である。 “われわれの患者の中の子供”がエディプス葛藤の年齢である時の困難も相当大きいことは知られている。しかし基底欠損の年齢にある“われわれの中の子供”と成人とを隔てる深淵はエディプス水準で遭遇するいかなるものよりもはるかに深く広い。エディプス水準では結局、双方とも合意にもとづく通常言語を用いるのに対して、基底欠損の年齢にある者は、文字通り真の“幼児”で全然成人言語を話せない。しかし、治療を放棄すれば別だが、困難が増大しても、なお分析者患者を距てる深淵に架橋せねばならない。けれども基底欠損年齢の“患者の中の子供”が自力でこの深淵に架橋できないことはわきまえていなければならない。この深淵にどうしたら架橋できるかは技法上の大問題である。この仕事のどの部分を分析者がやり、どの部分を患者にゆだねるべきだろうか? ありうべき誤解を避けるために、基底欠損水準まで退行した患者を相手にするのに直面する技法問題はまだ論じていないことを言っておきたい。基底欠損はいわゆる“深い”退行の一型にすぎないかも知れない。いわゆる“分裂病質者”でなく真の分裂病患者をもっと詳細に精神分析的に調べれば、基底欠損と“分裂病性”退行の区別点が現れるかも知れない。 分析者はとうにさきの二つの技法、、すなわちわれわれ成人と“患者の中の子供”とをへだてる深淵の架橋作業、および患者の現実受容力・共同治療作業力の欠如という二問題を認識し、これに対処する各種方法を開発してきた。この主題の文献において強調不足なのは、とくに退行が基底欠損水準に達した時に、退行患者と治療者とをへだてる深淵の架橋を試みる治療者を襲ういくつかの議決権の存在である。危険の原因がすべて、基底欠損領域内の現象に対する治療者の反応にあることも強調されていない。