うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

バラの花と、【理想化はいずれも外的対象に由来しそれをかたどったものの内面化にはじまる。ここで外的対象とは通常両親だ。この形成過程をとり込みと呼ぶが、言えるのはただ、重要な外的対象、すなわち強力にリビドー備給をうけている対象のみがとり込まれることである。】


 親分が、まりちゃんから、バラの花をもらってきました。まりちゃんが誰かにもらったとの事。帰宅するなり生けろって言われましたが(笑)自宅には花器が年末チャリティに出し尽くしてしまい、あまりありません。ましてや、洋花に合う花器などあるはずもなく(笑)徳利に投げ入れました。茎が細いので束ねるだけにしました。
 チュウリップは、どこか懐かしい感じがして良いですね。

 夜勤明けで、寝ようか、事務仕事をしようかと悩んでいて、取り敢えずギターを手に取ったまま、こんな時間になっていました(笑)
高校生の頃は、ギターを抱えたままで朝を迎えた日が沢山ありました(笑)慌てて時間割を見て、教科書や体操服を準備していたのを思い出します(笑)
 その割に、上手くならないのは何故でしょうか?

 本は、夜勤明けで、休憩がてらファミマでコーヒーを飲みながら1時間くらい読んでいました。
アップは、以前読んだ箇所です。

 一番最初に出て来る下記を何度も読み返していたら、《強力にリビドー備給》をすることが出来たらとり込みが成立するのか?それはどういうアクションなのか?と真剣に考えていました。《ここで外的対象とは通常両親だ》ならば、ウィニコットのいう、ほど良い母親的な支援をさせて頂けば、 《強力にリビドー備給》ができるのか?そもそもほど良いというものは、人それぞれによって、おそらく違うので、一つづつ吟味する必要はありそうですね......。

『理想化はいずれも外的対象に由来しそれをかたどったものの内面化にはじまる。ここで外的対象とは通常両親だ。この形成過程をとり込みと呼ぶが、言えるのはただ、重要な外的対象、すなわち強力にリビドー備給をうけている対象のみがとり込まれることである。』

 今日は、早く寝ます(笑)



第九章 ナルシシズムの臨床観察所見
 〜理想化はいずれも外的対象に由来しそれをかたどったものの内面化にはじまる。ここで外的対象とは通常両親だ。この形成過程をとり込みと呼ぶが、言えるのはただ、重要な外的対象、すなわち強力にリビドー備給をうけている対象のみがとり込まれることである。 理想化という現象と密接に関連するのは「全能(感)」と精神分析で呼びならわす、幼児と未開人にみられる自己過大評価である。時に「幻想的」「幻覚的」といった形容詞をつけて表現を弱毒化するけれど、意味はつねに「全能感」なる語を用いる時とかわらない(欧米人には神の“全能”と結びつく強い言葉なので、おとしめの形容詞が必要なのだろうーー訳者)。この形容詞の用法それ自身が、一般に承認されているこの臨床観察所見は欲求不満と接続する二次性のものであることを示唆する。さらに、大人で(いや子供でもよいが)全能的態度を示すものを精神分析してゆけば、その全能感がもつ破壊性と拮抗して自己嫌悪を防衛する自棄的な試みであることが必ず暴露される。私の知る限り人類の未開人に関する資料はこの説明がぴったり合う。さらに幼児の全能感について、われわれが考えることは主として成人と年長児を観察して得た事実が外挿して得たものを土台にしているにすぎない。万一それ以上のものが出てくれば別だが、幼児のデータは一次ナルシシズムの存在証明に使えず、せいぜい二次ナルシシズムの証明に使えるだけだと私は思う。 ナルシシズムの存在証明にフロイトが用いた第二の臨床事実は睡眠で、さきに引用した枚挙中にフロイトが睡眠を含めていないことが、いささか意外である。フロイトが睡眠に触れているのは器質疾患の経過中に起こるリビドー分析を論じ終わった箇所で、あとから追加した考えでないかとさえ思われる。フロイトはこう言っている。「どちらの状態も、とにかく、自我に起こった変化に接続して行ったリビドー分布変化の例である。」(全集、十巻、一四九ページ、英訳標準版、一四巻、八三ページ)この非の打ち所のない臨床的文章は、これらのナルシシズム状態が二つとも二次的であることを示唆する。〜
 睡眠に退行性のあることは誰も異議を唱えないだろうが、眠る者とはどんな目標点に近づこうとして眠っているのだろうという問いはあるだろう。一次ナルシシズムだ、という答えはたしかにその一つである。しかしそれしか答えがありえないのだろうか?ある本からの引用を私の答えとする。大変面白く刺激を与えてくれる本なのに誰からも無視され、ほとんど忘却に埋もれているうら悲しい本、フェレンツィの著作である。その「性交と睡眠」の章の第一段落を引く。 「性交における窮極目標と睡眠における窮極目標と、この両者を指向する営為が非常に細部まで似ていることは、私たちがこれまで声を大にして唱えすぎたくらいで、いまさら両者が生物学的に非常に重要な意味の適応行動であることを言い、両者の相似と差異をもうこれ以上詳細に反復検討する必要はあるまい。論文「現実感覚発達の諸段階」において私は新生児のはじめての眠り――心してまわりの影響から隔離し母や乳母があたたかくやわらかくむつきでくるんであげると成就しやすくなる――を子宮内状態の複製と述べた。新生児は、出生という外傷体験に震駭し、泣き、脅えるが、ほどなくなだめられてこの睡眠の中に入り、この睡眠により新生児には出生の恐ろしい衝撃がそもそも起こらなかったかのような感じが――一面では現実的なものを基礎にしてまた他面では幻覚ないし幻想的なものを基礎にして――生み出される。フロイト(『精神分析入門』)も言うとおり厳密に言えば人間はまるまるは出生しない。「夜になると床につき人生の半分をいわば母親の子宮内で過ごすことを思えば分かる。」(フェレンツィ、一九二四年、七三ページ)。 性交においてみられるオーガズムおよび入眠の二活動は、個人と環界間に一種の“調和”すなわち和平が成立した時にのみ達成できると思われる。この和平状態は、周囲の人々がその個体を擾乱的な外部刺激から守り、周囲の人々自身もその個体を昂奮させ擾乱する刺激をさし控える立場を引き受けることが一前提条件である。この考えは、性的不満の初期症状の一つか不眠だという臨床事実とよき合う。とすれば、睡眠中の者が睡眠なる退行過程中にできるだけ近づこうとする目標点はどうやら一次ナルシシズムではなく、その人の環界との原初的和平状態の一種――現代風の語法によれば環界が自分を“支えて”くれる状態――であるようだ。〜