うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日の日中と、【分析者が患者の欲求を一切即時無条件に充足させなければならない意味ではないが、分析者は、患者を理解し患者と“調和し”、患者に“波長を合わせ”(tune in)て仕事をすすめる力量の持ち主であることを自ら証明しなければならない。】



 今日は、皆さんと約束していた、浜松に行こうと、少し早めに現場に行ったら、何故か?皆さん駐車場におられて、早いな〜と思って、車に乗って頂いていたら、
湖西市の方の送迎について行くところだったとのことと、皆さんが車に乗った時に現場の職員から聴きました(笑)
 時間を見ずに出発したので、浜松に9時についてしまったので(笑)開店まで時間がもったいないので?磐田のららぽーとまで行ってみました。
取り敢えず、席を確保してから、皆さん(おっちゃんもw)初めてなので1Fと2Fを一周してみました(笑)それだけで約3,000歩あるきましたので、昼飯前の運動?が出来ました。いのうえっちだけが、出発前からラーメンを食べる!と言っておられ、他の皆さんは、到着しても悩まれていました。取り敢えずフードコートを2周して、考えてから2Fへ行きました。


 食後、また沢山歩き、誰が言ったのか?(笑)アイスクーリーム屋さんに行きました。
写真を撮っていたら、いのうえっちが変顔をしてから、みなさん変顔大会になりました(笑)
 沢山歩いて、沢山笑って戻りました。

 ホームの男子は、すろーじゃむの大きなお風呂に入って来ました!
いのうえっちの提案でした(笑)
 今日も職員さんが休んだので、代打でしたが、皆さんには良かったかもしれませんね。





 本は、今日も読めず(笑)最後の貯金を崩しました(笑)

 下記の2つは現場でもそうありたいことです。中井久夫先生が、医師が立派過ぎると、患者の存在がなくなって、治りにくいと何かに書いておられました。ふと、そんなことも思い出させてくれた箇所でした。
『分析者が患者の欲求を一切即時無条件に充足させなければならない意味ではないが、分析者は、患者を理解し患者と“調和し”、患者に“波長を合わせ”(tune in)て仕事をすすめる力量の持ち主であることを自ら証明しなければならない。』
『分析者はこの擾乱を回避するために患者に「同調」しなければならない。それができるうちは分析作業も、生物の成長のようにたえず順調に進行するだろうが、もし“同調”を維持しそこなうと、患者は不安やかまびすしい攻撃的症状や絶望などの反応を起こす。』



一〇章 分裂病嗜癖などの病的ナルシシズム状態
 分裂病精神分析によって根本的に治癒しうるかどうかは意見が分かれるが、分裂病者が決して精神分析できないわけでないことは一般の合意するところであろう。もっとも、正常の(とは標準のということだが)分析技法を分裂病治療に適用可能とするためには相当の修正が必要だった。この確定ずみの臨床経験を理論のことばで表現すれば、(一)分裂病者を外界よりの撤退という印象は部分的にしか正しくない。分裂病者は正常の――つまり三角関係エディプス関係の――世界から撤退しているが(二)もう一つの関係をつくる能力はあるわけで、この型の関係を提供したのがいかなる修正技法でもその目標とするところである
 ここでの主題に汗牛充棟もただならぬ文献の展望は不可能である。この型の関係――と技法――においては標準技法よりはるかにきびしい要請が分析者に課せられると言えば十分だろう。分析者が患者の欲求を一切即時無条件に充足させなければならない意味ではないが、分析者は、患者を理解し患者と“調和し”、患者に“波長を合わせ”(tune in)て仕事をすすめる力量の持ち主であることを自ら証明しなければならない。
 ついでながら、このことは分裂病に限らず退行患者全部にあてはまる。退行患者は分析者の漂わせるムードに極度に敏感である。それも退行の深い者ほど敏感で、正常人や神経症者なら意にも介さないものまで、退行患者の感情を揺れさせる、より正確に言えば深く擾乱させるものはざらにある。分析者はこの擾乱を回避するために患者に「同調」しなければならない。それができるうちは分析作業も、生物の成長のようにたえず順調に進行するだろうが、もし“同調”を維持しそこなうと、患者は不安やかまびすしい攻撃的症状や絶望などの反応を起こす。
 この調和というか不眠波長が合った状態が、退行患者の生活全体を包んでいなくてはならない。分析者と患者との関係だけでは不足である。分析の場の宿命は両者の調和の短命性である。分析者が時に患者から身を引き離して状況を“客観的に”再吟味しなければならず、また練りぬいた解釈を降さなければならないからであろう。一般にこの種の患者は外なる現実的対象との関係を短時間しか維持できないので、こういう貴重な短時間は分析治療のためにとっておかざるを得ない。で、もしも周囲――つまり日常生活――が患者に過大な要求を課するならば、自由に使えるリビドーはぐっと涸渇し、残存リビドーでは精神分析用にも不十分となるだろう。この種の患者を担当する治療者が、周囲の人たちに対して完全に患者の“軍門に降って”患者を“支え”、患者が残るリビドーを挙げて決定的人間関係すなわち分析者との治療関係に集中できるようにしてくれるべきだと――時だけは無理難題なのに――要求するが、それもこのためである。 この調和状態の重要さが分かれば、分裂病の治療報告が多く「外的事情のため治療はこの時点で中断されねばならなかった」「不幸にも一族が介入して治療は中絶の余儀なきに至った」などのもの悲しい一句で閉じられる理由も分かろうというものである。  この調和状態の理論的側面に“分裂病原性の母親”概念がある。子供と調和がつくれない母親のことである。経験と思慮に富んだある臨床家(ヒル Hill 一九五五年、一○八〜一○九ページ)は、「このような母親は将来分裂病にならない子供を過度に愛するだけでない。条件付きで愛するのだ。そしてその条件こそ分裂病の子供が満たせない条件だ。……こういう母親は子供の正常な外側。殻しか見なくて、子供の内面で生起するものの印象が心に滲み入らない。」分裂病治療するおける調和的人間環境を必要性についてのきわめて面白い臨床叙述はスタントンとシュワーツStanton and Schwarz(一九五四年)の著書にあって、人間環境は不調和でありさえすれば、患者の治療にたずさわっているスタッフの誰同士の不調和でもよくよくその他どんな分析でも、なるほど患者の状態の悪化を招来するものだと判る。 こうなれば、分裂病的ひきこもりという、公認の力量事実はどうも一次ナルシシズムの存在できる使えそうにないの分裂病者はいわゆる“正常人”や“神経症者”よりも自らの人間的環界とはるかに密接なきずなを持ち、はるかに強く環界に依存しているという方が事実に適っているのであるまいか。いかにも、分裂病者の行動の表面的観察だけではこの密接なきずな、この絶体絶命の依存、は見えてこず、逆にたずさわって引きこもりが一切の接触欠如と印象が醸成される。この点に限り、分裂病性退行はおそらく幼児期あるいは胎児期に対応するといってよいだろう。幼児、胎児にも正確に同じ状態があること外からみればナルシシズム的独立性と外界への無関心があり、部分的対象への接触しかなく、それも一過性で一件何ら重要でなさそうな外見をみせるが、これらはすべて、ルネ・スピッツ R.Spitz(一九四六)の対象早期剥奪効果の研究をはじめ現代の諸研究が証明したように、皮一枚下には絶体絶命の依存と、“調和”への非常に熱烈な希求がある。