うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

骨董品と、【何であれ外的パターンに倣って自我内に変化が生起するには、このパターンがその個体に持つ意味が大きくなければならない。】


 今日は、お昼にご馳走いただき、その方の大切にされている、骨董品まで頂き、申し訳ない一日でした....。
写真にはないですが、古備前の壺は大きくはないけれど、風格のあるものです。
 自宅には、高価なものがありませんので、戸締りもいい加減でしたが、これからは、きちんと鍵を閉めないいけませんね....。

今日は、事務仕事を朝の少しだけやり、人と会ったり、してたらあっという間に夜勤入りの時間になっていました。
慌てて着替えて、現場に入りました。この時期に職員さんに休まれると、ちょっときついですね.....。

 そんな中でも、人を待つ間に本は読みました。ギターは、左の薬指を痛めて(笑)弾くことができない状態です。きっと神様が、今ギターを弾いている場合か!と怒ったのでしょうね(笑)痛くて弾けません....。
 毎日、本当に勉強になる箇所を読ませていただいているので、感謝しています。バリント先生の本を調べましたが、目玉が飛び出るくらいの高値になっていました....。
一番読みたい本は、約30,000円でした。再販してほしいですね。四月に他の本が再販されるので、この勢いでしてもらえないでしょうか?

 掃除や洗濯も早く終え、皆さんと触れ合っていて、もう皆さんも眠られたので、ちょっと一息です。巡回時間まで、事務仕事をやります。


 下記も、色々とヒントを頂きました。この本を開いて直ぐに、すでに内在化されたものを消去するにはどうしたらいいのか?と出ていましたが、親御さんの行動をそのまま(投影されて)内在化されたと思われる方がおられるので、自分自身もそのやり方を探しています。それを消去するのではなく、新しいやり方を覚えるほうが易しいのなら、そちらを選んだほうが、お互いにとって良いことなのか?と悩みだしています。要は、その方にとって負担が少なくて、最短な方法が見つかればよいだけだとは思っています。ケースメント先生の本に、誰が(患者さんの)精神分析家の作品になりたい人がいるか!という箇所を思い出しました。自分たちも、自分たちの存在を出さずに、その方が、知らず知らずの裡に、良い方向に向かえることが、本当の内在化に繋がるし、偽りの自己(強制されたり、抑圧されたりしての)が本当の自己を覆い隠すことを防げるようにも思います。


 巡回の準備をします。


 中井久夫先生の訳に出てくる「むつき」というのは、おしめのことだと、この本を読みだしてから、調べて初めて知りました。
 

第一一章 出生前および出生後初期状態
 通常の意味の同一視とは、すべて、その前に強力な備給を受けていた何らかの外的対象あるいは環界部分の影響を受けて自我に変化が生起することを意味する。もっとも一次的な一次同一視さえもとにかくその個体外の何かとの同一視であり、また、何であれ外的パターンに倣って自我内に変化が生起するには、このパターンがその個体に持つ意味が大きくなければならない。したがって一次同一視は一切存在しないと私は言いたい。同一視はすべての語の定義上の何らかの対象備給、環界備給に接続してその後に生起するものでなければならない。とすれば当然、一次ナルシシズムと一次同一視とは同時的に存在しえない。だいたい、一次ナルシシズムや一次同一視なるものがそもそも存在するかどうかが疑問だが、それを別としてもである。 一次ナルシシズムが存在するということをいう論法はもう一つある。よく用いられる論法で、それは「幼児期最初期には外界を意識できない」である。幼児が備給する外界が存在しないからには、幼児は一次ナルシシズムの裡に生きていると考えざるをえない。この論法が観察事実とどうしても矛盾すると思われる時は論調を弱めて、満足した幼児は入眠によって世界の影響から離脱するが、もしさめていても(ホファーW.Hofferの例(一九五九)のように)「即環界であるところの母親が子供の一次ナルシシズムを助長したために、まだ自我もなく危険という観念も不安や防衛の観念もない……」(八ページ)と仮定しなければならない、とする。こうして「あと、一次ナルシシズム状態――これは幼児出生以前の母親の好ましい性質を保持することと同義である――を支える支点さえあれば万事よしである」(九ページ)。 同論文中でホファーはもうフロイトの幼児期初期理論は当時の育児法だった、むつきでくるむことの影響を受けてはいないかと指摘している。ホファーによれば、むつきは「発達途上の自我にとってナルシシズム的外皮の役をする」(一0ページ)。つまり、幼児は外部刺激から守られ、おそらく対象関係が結果的に遅れるだろう。「むつきを脱すると同時に幼児の一次ナルシシズムは危機に陥る。むろん、現実にそうなのではなくて一次ナルシシズムの上を対象関係が蔽うのが目につきはじめるため、観察者にはそう見えるのである。」さらにホファーは「われわれの理論が現在主流を占める(育児法の)条件に結果的に適合しているだけのことを学問としての精神分析学の進歩だと唱えているのではないだろうか」(一一ページ)と付言している。 こういう論法は問題をはぐらかしているだけである。まず、一次ナルシシズムが存在すると宣言し、ついでこの宣言を不可侵とするために、重ねて断定をする。(a)環界であるところの母親は一次ナルシシズム状態を保護するように幼児を“支えて”やらなければならない、とか、(b)子供はこの“支え”の変化を一切意識してはならない、とか(c)環界との関係が観察されても、“支え”に起こった変化(たとえばむつきが無くなること)に対する反応が観察されても、それは一切間違いとして除外すべきだ、という断定である。そう言いでもしなければ理論構造全体が瓦解するのだろう。 環界との関係は原始的な形態ながらそもそもの発端から存在していて、幼児は環界に生じた相当規模の変化を意識しそれに反応すると認めた方がずっと単純ではないかと思う。しかしこうなればホファーの論法は一次ナルシシズム理論とは主に手荒く扱われた幼児、たとえばきつくむつきでくるまれた幼児、硬直的な育児日程表で育てられた幼児相手の臨床体験に基づくものであったことになってしまう。そういう幼児は結果的に過早に二次ナルシシズムを発達させざるを得なくなったのであり、またそれは主に幼児とその環界との関係擾乱に対する反応である。