うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

“インフルエンザ警報”を発令します!と、【分析家として生き続けること】


 今日、愛知県は『インフルエンザ警報』を発令しました。
感染性胃腸炎”警報は平成28年12月14日(水曜日)に発表されていました。
写真は先日冷え込んだ時の物ですが、また寒気が日本列島を覆う様ですね.....。
 皆さん暖かくして、加湿器も忘れずにいれて下さいね!

 早番の仕事が一段落してから、アルコールカット綿を購入してきました。
今年も例年通り、インフルエンザをガードできればと思っていますが、猛威を振るっていますね.....。

 アップは昨日読ませて頂いた箇所です。現場での支援者もこうありたいと思います。ウィニコットですね!

『患者に対して非常に批判的になったり、意地悪になったり、主体性を認めなかったり、懲罰的だったり、そういう存在に限りなく近づいていく。 分析家は、そうなりそうな自分を持ちこたえます。分析設定という枠組みはこのときたいへん役立ちます。実際に行動に移すことなく、そういう自分というものを夢見て、考えようとします。湧き起ってきた体験通りにふるまう、つまり患者に対してはほんとに批判的に何か言ったり、逆に情緒を体験することを避けて知的に処理してしまうのではなく、実際に情緒的体験をしながらそれをずっと夢見続けることが分析家の仕事です。自分の中の対話を繰り返していく、ずっと維持していくっていうことです。情緒的な接触を持ちこたえて、ごまかしたり拒絶したりないものにしたり知性化したり行動化したりしないでそれを夢見る。それが生きるっていうことです。分析家として生きるってことです。』


 こちらは、支援方法へのヒントになりますね!

『情緒は他者です。思考や意志よりはるかに他者です。患者のこころのなかの一部分が分析家のこころのなかで、他者性を帯びた情緒という場所に棲みついていきます。患者のこころの一部分が分析家のこころの一部分になって、分析家のこころのなかで生きていくわけです。フロイトがすでに気づいていました。すごく攻撃的なお父さんとの関係の中で結局お父さんのように攻撃的になってしまう子供がいる。あるいは、その後の精神分析が気づいたのは、患者さんのお母さんが患者を見捨てるようなお母さんだとすると、段々こちらが患者を見捨てたくなってくる。つまりその患者さんの内部の見捨てる母親たちに私たち自身がなってしまう。こうして患者のこころのなかの重要な部分、自分だったり母親だったりが分析家のこころ、私たちのこころに棲み処を見つけるわけです。』



精神分析とはどんな実践か》
【分析家として生き続けること】
精神分析家はそのとき何をしているかっていうと、情緒的な接触というものを分析家は体験しています。情緒とか感情っていうのは、さっき伊藤先生も「感情っていうのは、気持ちっていうのはコントロールできない」っておっしゃっていましたが、そうなんです。気持ちそのものはコントロールできない。「自分の気持ちをコントロールしなさい」とか訳の分かんないことを言う中学校の教師とかいましたけど、コントロールできませんから、気持ちは。それは自然に出て来ちゃうものです。自生的な体験です。つまり、自分の情緒というのは、そもそも他者性を帯びているものなんです。思うがままに動かすことができない体験部分であるという意味で、情緒は他者です。思考や意志よりはるかに他者です。患者のこころのなかの一部分が分析家のこころのなかで、他者性を帯びた情緒という場所に棲みついていきます。患者のこころの一部分が分析家のこころの一部分になって、分析家のこころのなかで生きていくわけです。フロイトがすでに気づいていました。すごく攻撃的なお父さんとの関係の中で結局お父さんのように攻撃的になってしまう子供がいる。あるいは、その後の精神分析が気づいたのは、患者さんのお母さんが患者を見捨てるようなお母さんだとすると、段々こちらが患者を見捨てたくなってくる。つまりその患者さんの内部の見捨てる母親たちに私たち自身がなってしまう。こうして患者のこころのなかの重要な部分、自分だったり母親だったりが分析家のこころ、私たちのこころに棲み処を見つけるわけです。
 この過程、そういうプロセスこそが重要なのです。こちらがよい存在でよい体験を与えて、それが患者のこころに取り込まれてよいこころの世界ができる。というようなことではないのです。それどころか、こちらがもうまるっきり悪いものとして体験されて、あるいはほとんどの場合、そして実際自分は悪いことをしそうになっていく。患者に対して非常に批判的になったり、意地悪になったり、主体性を認めなかったり、懲罰的だったり、そういう存在に限りなく近づいていく。
 分析家は、そうなりそうな自分を持ちこたえます。分析設定という枠組みはこのときたいへん役立ちます。実際に行動に移すことなく、そういう自分というものを夢見て、考えようとします。湧き起ってきた体験通りにふるまう、つまり患者に対してはほんとに批判的に何か言ったり、逆に情緒を体験することを避けて知的に処理してしまうのではなく、実際に情緒的体験をしながらそれをずっと夢見続けることが分析家の仕事です。自分の中の対話を繰り返していく、ずっと維持していくっていうことです。情緒的な接触を持ちこたえて、ごまかしたり拒絶したりないものにしたり知性化したり行動化したりしないでそれを夢見る。それが生きるっていうことです。分析家として生きるってことです。
分析家として生き続けること、つまり生きたこころを持って患者のそばにいるということが、分析家の一番メインな仕事です。もうそれでほとんどです。私の考えでは、その上で何を言うか言わないなんていうのは、表層レベルのことかもしれないと私は思っています。もちろんそこから滑り落ちていく、つい何か変なことをやっちゃったりするかもしれない。そのとき、変なことをやっちゃったことに対してこちらはちゃんとオープンになることが大事です。