うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

うたたね増築工事開始と、【子どもの世話をする環境と興奮させる環境(母親の2つの局面)の間の分裂を、子どもの心の中で統合することは、ほど良い育児と一定期間を越えて母親が生き残ること以外には成し遂げられないのである。】


 うたたね増築工事が始まりました!
駐車場が少し遠くなりましたが、皆さんおそらく運動不足なので(笑)良い運動になりますね!
 5月には開始の予定です。


 今日は夜勤ですが、なんやかんやとやっていたらもうこんな時間.......。
給与計算は、明日の夜勤明けまで持ち越しです......。
 給湯器の修理が終わっているでしょうか?14時にリンナイの方が来られていましたので、今頃直っていますよね?



 本は、朝うたたねに寄ったついでに、うたたね横のファミマで読みました。
下記は、アンビバレンツやスプリッティング等を統合できる能力も、母親(ほど良い)の技術があれば、できるんだと記述されているように思いました。
 簡単なことが出来ない時があるのも、人間だからですね.......。しかし、仕事では、そうはいきません。



環境の機能
 〜母親は、2つの機能を結合して、これら2つの機能をちょうど良い期間、維持していく必要があり、その結果幼児にこの特定の設定を使用する機会が与えられるようになるのだろう。母親は、幼児の世話をするという彼女の技術を使って、全般的に幼児のニーズに適応してきたのである(アンナ・フロイト、1953を参照)。そして幼児は、彼女の顔、耳、身に付けているネックレス、そして(急いでいたり、怠惰であったり、あるいは心配、悩み、興奮などに影響される)変化する態度と同じように、その一部なのである。母親はこのすべてを体現したものとして、幼児から愛されてきた。愛情affectionという用語がここで登場するのだが、きわめて多くの幼児が取り扱い抱きしめる対象の中に体現されているのは、これらの母親の諸性質なのである。 同時に母親は、本能的緊張の期間中は、襲撃の対象である。私が、赤ん坊の平静quiteでいるか、興奮しているかによって、母親の機能を区別しているということが分かるだろう。事実、はっきりいえるのは、乳幼児が平静か興奮した状態にいるかに応じて、2つの機能を有するのである。 最後に、幼児の心の中で、これら2つに母親の機能が一緒になる段階が設定される。まさにここで、非常な困難なことが起こる。そして、これらの問題は、メラニー・クラインの先駆的な仕事において特に研究されていて、この分野でこれほど豊かな、あるいは生産的なものはほかにはなかった。平静な局面ではとても大事にされるこの母親が、興奮した局面ではこれまで無慈悲に攻撃されてきて、そしてこれからも攻撃されるような人物だという事実を、人間の幼児は受け入れられないのある。 幼児は、1人の全体的人格となって、母親と同一化することができる。しかし赤ん坊は、意図されたことと、実際に起こったことを、まだ明確に区別できない。機能と、それらが想像的に練り上げるものとが、事実や空想としては、まだ明確に区別されてはいない。赤ん坊が、ちょうどこの頃に成し遂げなければならないことは、実に驚くべきものである。
 もし“静かなquiet”母親が時間的にちょうど良く状況を抱え、その結果赤ん坊が“興奮”した関係を経験していたその結果に直面するならば、何が起こるか見てみよう。 できる限り最も簡単な言葉で言えば、興奮した赤ん坊は、何が起こっているのかほとんど知らないまま、生のままの本能によって、そして本能に属する強力な種類の考えとともに、心を奪われるようになる(われわれは、相対的に満足のいく授乳や、その他の本能的体験を当然のこととして仮定せねばならない)。 その母親に、全く異なる2つの使い方があることが、幼児に分かる時がくる。衝動に基づき、解放を求めた本能的緊張に基づいて、ひとつの新しい種類のニードが生まれてきていて、そしてこれには、絶頂やオーガズムが含まれる。オーガズム体験があるところでは、必然的に欲求不満により苦痛が増加することで一度興奮が始まり、緊張が高まれば、危険が介在してくる。 このことすべての意味合いが充分に感じ取れる以前に、たくさんのことが体験されなければならないということを、われわれは受け入れねばならないと私は思う。 私がすでに述べたように、2つのことが起こっている。1つは、2つの対象の同一性についての知覚である。すなわち平静な側面の母親と、本能的絶頂期において利用され攻撃さえされる母親である。もう1つは、考え、そして空想、つまり機能についての想像的な醸成の存在に気づき始めることであり、すなわち事実に関連してはいるが、事実そのものとは混同されないような考えや想像を受け入れるということである。 個人的に情緒発達におけるこのような複雑な前進は、ほど良い環境からの援助なしには遂行されない。ここで言う援助とは、母親が生き残ることsurvivalによって代表される。子どもが記憶の素材を集めてしまうまでは、母親は消失する余地はないのである。
 “静かな”母親との興奮したり本能的であったりする関係、または襲撃というような生な事実を、人間は受け入れることができない、というのがクライン理論の前提であるようにわれわれには思える。子どもの世話をする環境と興奮させる環境(母親の2つの局面)の間の分裂を、子どもの心の中で統合することは、ほど良い育児と一定期間を越えて母親が生き残ること以外には成し遂げられないのである。