うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

インフルエンザの現況と、【そしてやがて、誰か他人のために状況を抱える人間でいるという機能を、腹を立てることなく引き継ぐことができるようになる。】


 喘息が、まだすっきりしないので、ステロイドの吸入剤を頂いてきました。
病院の待合に、インフルエンザの状況が貼ってありました。漸く落ち着いて来ましたね!
 今日は夜勤なので、早めのアップです。
 下記は、現場でもそうありたいですね。どんどん必要とされなくなっていくのは、淋しいと思われますが、親離れ・子離れができて初めて、両者が自立できるように思いますし、それが、自分たちが目指している支援のような気もします。
『その結果、母親が状況を抱えているという体験は自己の一部となり、自我に同化されるようになると思われる。このようにして実際の母親は、どんどん必要とされなくなっていく。個人は、内的環境を獲得するわけである。こうして子どもは、新たに状況を抱えるという体験を発見できるようになり、そしてやがて、誰か他人のために状況を抱える人間でいるという機能を、腹を立てることなく引き継ぐことができるようになる。』

 



  〜ずっと母親はちょうど良い時間で状況を抱えている。こうして、幼児の時間は進行し、身体的消化と、さらに対応する徹底通過が精神面で起こっている。その徹底通過は時間がかかり、乳幼児は内部で進行中のことに受け身的に身を任せながら、その結果を待つことだけしかできない。健康な場合には、この個人的な内なる世界が、無限に豊かな自己の核となる。 どのような幼児でも、人生のこの時代の終わり近くでは、内なる作業がなされた結果、幼児は差し出すことのできる良いことと悪いことを受け入れ、良いこととして差し出されるものと、悪いこととして差し出されるものを、知っていると思われている。ここに最初の与えることgivingが見られ、この与えることなしには本当に受け取ることreceivingもありえない。これらすべてのことは、乳幼児の世話において、非常に実践的な毎日の事態であり、分析においても全く同様である。 生き残る母親、すなわち贈り物としての身振りがなされた時、そのことについてわかっている母親に恵まれた幼児は、例の穴ぼこ、すなわち乳房のあるいは身体の穴ぼこに関して、今や何かをするという立場にいる。その穴ぼこは、本来の本能的瞬間に、想像的につくられたものである。ここで、償いと修復という言葉が登場する。これらの言葉が、正しい設定で使われれば非常に多くのことを意味するが、不正確に使われると、容易に陳腐な常套句となる。もし母親が彼女の側の役割を果たしているなら、贈り物としての身振りは、その穴ぼこに届くかもしれない。 なぜ私が、母親がちょうどよい時間で状況を抱えることの重要性を強調してきたかと分かってもらえるだろう。
 今や、良い循環being circleが設定されている。これらすべては複雑なことではあるが、そこに次のことを見分けることができる。




 本能的体験によって複雑になった幼児と母親との関係。 結果(穴ぼこ)についてのぼんやりした知覚。 内的な徹底通過、すなわち体験の結果が選り分けられること。 与える能力、すなわち内側の良いものと悪いものの選り分けのゆえに。償い。



 この良い循環が毎日毎日強化される結果として、幼児は穴ぼこ(本能的な愛の結果)に耐えることができる。ここに、罪の感情guilt feelingの起源がある。これが本当の罪である。なぜなら、植えつけられた罪implanted guiltというのは、自己にとって偽りであるからである。罪は、2つの母親、そして平静に愛と興奮した愛、そして愛と憎しみ、といった2つを一緒に寄せ集めることを通して始まる。そしてこの感情が徐々に成長して、人間関係における活動の健康で正常な源となる。ここで能力potencyや社会貢献、そして芸能人活動のひとつの源がある(しかし、芸術そのものの源ではなく、芸術とはもっと深いレベルに根差している)。 だからこそ抑うつポジションが大変に重要であることが明らかなのである。そしてこのメラニー・クラインのこの点についての精神分析への貢献は、社会および子どもの世話や教育の本当の意味での貢献である。健康な子どもは、罪の感覚のパーソナルな源を持っているのであって。罪あるいは思いやりを感じることを教えられる必要はない。もちろん、ある割合の子どもたちは、この意味では健康ではなくない抑うつポジションに達しておらず、そして善悪の感覚はまさしく教えられなければならない。 このことは、最初に述べた事柄の当然の結果である。しかし少なくとも理論的には、おのずとの子どもは罪の感覚を発達させる潜在力と有している。臨床的にわれわれは罪の感覚のない子どもたちに会うが、しかし、もし抑うつポジションの獲得に手遅れになる前に機会が与えられるなら、私的な罪の感覚を見いだせない人間の子どもなどいない。境界例の症例においてわれわれは、分析から離れても、この発達が生じるのを実際に見て取れる。それは妥当といわゆる不適応者のための学校で世話されている反社会的な子どもたちの観察において見られるのみである。
 良い循環が働き始めると、時間が与えられれば、その穴ぼこについて、そして母親の身体に対するイドの衝動のさまざまな結果について幼児は何かがなされうるという認識を持ち始める。これを通して、思いやりconcernは幼児にとって耐えれるものとなる。このように本能はより自由になり、より多くの危険にも挑むことができるのである。より大きな罪が引き起こされてもないさらに続いて本能的体験の激化がその想像的な練り上げを伴って起こり、それゆえ結果として、内なる世界がさらに豊かになって、今度は贈与力の可能性giftpotentialがさらに大きなものになる。

〜われわれは、分析中に転移の中で抑うつポジションに到達した時、このことに繰り返し出会っている。愛が表現されると、引き続いて分析家に対する不安や、また心気症的恐怖が起こるのをわれわれは見ている。あるいは、もっと積極的に言うなら、本能の解放、人格における豊かさに向かう発達、そして能力potencyの増加、あるいは社会貢献への一般的潜在力の増加をわれわれは見るのである。 時間が経つと、個人は良いと感じられた体験に記憶を築き上げることができ、その結果、母親が状況を抱えているという体験は自己の一部となり、自我に同化されるようになると思われる。このようにして実際の母親は、どんどん必要とされなくなっていく。個人は、内的環境を獲得するわけである。こうして子どもは、新たに状況を抱えるという体験を発見できるようになり、そしてやがて、誰か他人のために状況を抱える人間でいるという機能を、腹を立てることなく引き継ぐことができるようになる。