うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

アレキサンダー・テクニークと、子ども食堂と、『学力足りても学費足りず…進学悩む子供たち』のニュースと、『クライン―ラカン ダイアローグ』

今日は、ついでの用事を作らずに、アレキサンダー・テクニークだけを受けに行って来ました。どうしても、次に備えて体が準備してしまうようで、ゆったりと構えていられないのでしょうね(笑)好戦的に見えますか?と聞いてみたら、肯定も否定もされませんでした.....。今回は、柔軟体操をよくするので、それを見て頂きました。
 脚を揃え、伸ばして座るだけでも、無駄に脚に力が入っているのが分かりましたが、意識して坐骨に重心を落して、脊椎は鎖が下がっているように感じる事が出来ず、先生に頭の位置を確保してもらい、頭を下げる時は、頭の先にリーディングエッジを感じながら下げ、上げる時は、骨盤と腰椎が引っ付いて?いる箇所から上げて来るというのを、助けて頂きながらしたら、何の抵抗も無いかの如く、体が曲げる事ができました。
 いつもどこかに無意識のうちに、無駄な力が入ってしまっているんですね....。
 会場に、子ども食堂のチラシがあったので3枚もらってきました。うたたねにも掲示させて頂こうと思ってす。
 個人的には、こういう活動をどこかでさせて頂きたいと思っています。自分の子供時代を思えば今すぐにでも行動したいですが、経済的にも時間的にも直ぐには無理ですね.....。
 今度見学に行かせて頂きたいとも思いました。


『学力足りても学費足りず…進学悩む子供たち』
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20161123-00000046-nnn-soci
 こんなニュースもありました。自分も経済的な心配をしなくてよかったら、普通に大学に行きたかったし、そんなら奨学金を!との声もかかるでしょうが、本当に困窮していたら、ブラック企業を辞められない心理と同じで、お金というものに縁がなさ過ぎて、そんな発想も(無気力になってしまっているというのもあります)出て来ません。取り敢えず明日食べる飯の心配しかできないのが現実ですね.....。
 自分に財力があれば、このニュースにある様な方々にいくらでも資金提供させていただくのに.....と、現実から逃避しながら考えてしまいました。




 電車で読む本に『クライン―ラカン ダイアローグ』を選んで持って行きました。
福本修先生のブログに出ていた本だったので、恐る恐る(笑)開いてみましたが、自分の様な初学者でも分かり易く(クラインやラカンの理論・技法が)書いてあり、それぞれの学派の方が発表・討論する形式で、少々スリリングな感じがする本ですが、初めから読みやすかったです。いきなりアップさせて頂きたい箇所ばかりでしたが、そこは少し我慢して(笑)少しだけにしておきます(長いですが.....)。
しかし、一回では無理なので(笑)何回かに分けてアップさせて頂きます。支援に役立つ部分だと思われますので、是非とも頑張って読んで頂きたいです。

 せめて、この3つだけでも読んで頂きたい!真剣に支援を考えている方なら、何かを感じて頂けるはずです。

『この小さな自体愛的存在にとって間違いなのは、自分とは別のものであるこの対象が、自体愛的主体との一体化に抵抗するということなのです。対象とは、結局いつも私たちの把握を逃れてしまう何かなのです。乳房や母の身体ですら、赤ん坊のものではありません。それらは母の愛の賜物であり、母の裁量しだいで、与えられたり、取り上げられたりするものなのです。』


『さきほどの私の観察にも見られるように、欲求と快との混同は母親や赤ん坊の側にあるのではありません。それは、フロイトの「欲動」(Trieb)を本能(hnstinct)と訳した人びとを含む分析家たちの側にあるのです。理論的な混乱がここから始まっています。本能を、満足を求める欲求に奉仕するものとするならば、欲動とは、性愛的快を求めるリピドーに奉仕するものなのです。』


『母親の不安というものが生じるのは、赤ん坊の欲しているものを持っていないという認識からです(そして、この認識は、赤ん坊ばかりが自分の欲しているものではないという認識と一致しています)。最も愛情深い母親でさえも、この神話的な起源統一体を赤ん坊に返すことはできません。母親が与えることのできるものは、いくらかの心地よい贈り物しかないのです。』

 次回に続きます。



『クライン―ラカン ダイアローグ』 (バーゴイン&サリヴァン著・新宮一成監訳)
【児童分析】
ラカン理論における幼児――むかしむかし》
ビーチェ・ベンヴェヌート


精神分析の対象〉
フロイトにとって、分析の対象とはリピドーを備給されたものでした。アメーバの例にあるように、対象は幼児の自体愛的な網の目に含まれています。対象こそが、自分自身の快へと結びつけられるのです。そして、快とは自己の意味、あるいは自己の概念にとって核となるものです。自分自身と世界は、まだ区別されていません。したがって、もし新生児に主体があるというのならば、一言でいって、それは対象を求めてもがくこの快(リピドー)のうちに住まうでしょう。しかし、この小さな自体愛的存在にとって間違いなのは、自分とは別のものであるこの対象が、自体愛的主体との一体化に抵抗するということなのです。対象とは、結局いつも私たちの把握を逃れてしまう何かなのです。乳房や母の身体ですら、赤ん坊のものではありません。それらは母の愛の賜物であり、母の裁量しだいで、与えられたり、取り上げられたりするものなのです。〜

〜最初の観察では、苦痛を訴えて病院を訪れた母親が前景におり、一方、赤ん坊のイヴァナが現れるのは,ただオシメを換えられる存在、ご飯を与えられる存在、話題にのぼる存在としてだけでした。〜イヴァナのために母親は、オシメや暖かい毛布の不足や準備などあらゆることに気をもむ、劇の主役になってしまいました。〜



〈欲求と快〉
 本能というものは欲求の満足を目指します。たとえば空腹などがそれです。一方、リピドーが目指すものは快の満足なのですから、この快がもともと欲求の満足から引き出されたかどうかにかかわらずもリピドーは本能ではありえないのです。こうした欲求と快の重なりに対する感受性のために、イヴァナの母親は赤ん坊に対する困惑を表現するのです。「あなたはそれを空腹と考えているけど、そうではないのよ」。フロイトは赤ん坊とと授乳者を絶え間なく観察したわけではありませんが、成人患者との分析作業から、退行が示すものは口唇的、肛門的欲求ではなく、口唇的、肛門的な性愛、すなわち快であるという推論を引き出すことができました。イヴァナの貪欲さが示すもの、純粋な生物学的欲求を超え出る性愛エネルギーです。エロティシズムが本質的にスキャンダラスであるのは、それが私たちの賢い欲求をめったに尊重することが無いからです。満足をもたらす食べ物など気にも留めずに、乳房の差し出す母乳を超えて、イヴァナはしゃぶることを享楽しているのです。
イヴァナはそうして遊んでいるのです。イヴァナは自分や私の親指をしゃぶりますが、それは疲れ果ててしまうほどに続けられるのです。しかし、こうした単純な観察も、フロイトを待たずして為されませんでした。赤ん坊の貪欲さと快を、母乳に対する飢えとして解釈することはいっそう簡単なことでしょう。しかし、とても素朴な乳母でさえ、赤ん坊が泣くときは、たいてい快と愛とを要求しているのだと教えてくれます。赤ん坊は、他者への要求の性愛的な本質を認識するように要求しています。赤ん坊がエロスを要求し、母が赤ん坊にその印をあげるのです。母の乳房は愛の印なのです。さきほどの私の観察にも見られるように、欲求と快との混同は母親や赤ん坊の側にあるのではありません。それは、フロイトの「欲動」(Trieb)を本能(hnstinct)と訳した人びとを含む分析家たちの側にあるのです。理論的な混乱がここから始まっています。本能を、満足を求める欲求に奉仕するものとするならば、欲動とは、性愛的快を求めるリピドーに奉仕するものなのです。



〈泣き声〉
〜母親の不安というものが生じるのは、赤ん坊の欲しているものを持っていないという認識からです(そして、この認識は、赤ん坊ばかりが自分の欲しているものではないという認識と一致しています)。最も愛情深い母親でさえも、この神話的な起源統一体を赤ん坊に返すことはできません。母親が与えることのできるものは、いくらかの心地よい贈り物しかないのです。しかし、この贈り物も「それ」ではなく、「それ」を代わりに示すものなのです。愛は統一体の代わりをしますが、統一体ではないのです。ほとんどの分析家が賛同し、またはほとんどの母親が知っていることですが、赤ん坊が乳房から欲しているのは、空腹を満たすことだけではないのです。一般に母乳は、赤ん坊が生命から欲しているものとしてだけでなく、必死に要求する幼児をなだめるための安らぎとしても考えられるのです。〜




〈部分対象〉
〜口唇期は、乳房との関係における、貪り脅かす幻想が住まうところとなります。こうした関係では事実が問題なのではありません。この関係は、決して満足をもたらさない外的な対象としての乳房に適応する過程を伴うのです。決して満足をもたらさないとは、言い換えれば、部分的ということです。ラカンは「部分的」というこの概念を、部分的にしか満足の機能を果たさない対象に当てはめました。対象は定義上、部分的です。というのも、赤ん坊にとって、全体などというものはないからです。たいていの古典的な対象関係論は、世界を部分へと分裂したものと考えています。
 精神分析はどのような学派であれ、常に分裂と分割を扱わなければならないのです。「ラカン派も例外ではありません。逆に分裂をその理論の中心とし、それに目を向けようと試みているのであり、分裂を中立化したり、否定しようとしたりしているわけではないのです。欠如は病理的なものではなく、人間の精神の核なのです。〜