うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

素敵な言葉と、【発達途上にある個体の研究を行ってみれば、心がその偽りの統一体、偽りの局在性を形成しつつあるのがですしばしば見出だされることになるだろう。】


 オキ・ジュンコさんの作品を見たくて、ピンタレストを開くようになったのですが、最近はお笑いばかり開いています(笑)
その中に、素敵な言葉がありましたので、アップさせて頂きました。
 なんとなく、納得ですね!
 早いもので、明日から3月ですね!花粉症が酷くなってきて、せき込みまで出て来ました.......。




 今日はいつ、本を読んだのでしょうか?CHAPTER 7のさわりの部分を何回も何回も少しでも理解できるようにしようと思いましたが、半分も理解していないかもです......。





CHAPTER 7
心とその精神−身体との関係(1949)

心mindの概念について研究するには、人は1つの個体、1つの全体としての個体を研究しなくてはならず、そこにはその個体の精神身体的な存在の、まさに開始そのものからの発達も含まれてなくてはならない。もしこの原則を受け入れたならば、心とは精神−身体psyche−somaのうちの精神psycheの方から特殊化されて取り出されたものとして、研究することができるのである。 個体の精神−身体、あるいは身体図式が、きわめて早期の発達諸段階を満足のいく形で通過して来たのであれば、心は個体にまつわる諸々の事柄の図式のなかに、1つの統一体として存在することはない。その場合の心とは、精神−身体が機能していることfunctioningの、1つの特殊な例以上の何ものでもないからである。
 発達途上にある個体の研究を行ってみれば、心がその偽りの統一体、偽りの局在性を形成しつつあるのがですしばしば見出だされることになるだろう。それらの異常な傾向についての研究が、健康、あるいは正常な精神において心が特殊化されることについての、より直接的な検証に先立たねばならない。 われわれは心的mentalという言葉と、身体的physicalという言葉を、対立したものとみなすことにきわめて慣れていて、それが日常の会話の中で対立して用いられることに関して、異議を唱えようとはしない。しかし、これからの概念が科学的な議論において対立している場合というのは、全く別の問題なのである。 身体的、心的、という2つの語を用いて疾患を記述するならば、われわれは即座に混乱に陥るであろう。心身症的障害は、心的と身体的の中間にあって、相当に危うい位置にある。心身症患者たちについての研究は、私が今述べているような意味での泥沼によって、程度の差こそあれ、その進展をも阻まれているのである(MacAlpine,1952)。また、神経外科医たちは、正常または健康な脳に働きかけて、心的状態を変化ないしは向上させようとさえしている。それらの“身体的”治療者たちは、彼らの理論の大海の中で、全くその方向を見失ってしまっているのである。奇妙なことには、彼らは身体としての体の、すなわち脳がその統一的な部分を占めるものとしての体の重要性を、忘れ去っているようである。 そこでわれわれの発達途上の個体が、その始まりから開始する様子について考察してみよう。ここに1つの体があり、精神と身体は、人がどの方向から眺めるのかによってしか区別されることはない。人は発達中の身体または精神の、どちらかを見ることができるのである。私はここで、精神psycheという言葉は、身体的な部分、感情、機能を想像的に練り上げることimaginative elaborationを変化つまり身体的に生き生きしていることphysicalalivenessの想像的な醸成を意味するものと仮定している。この想像的な練り上げは、脳が、とりわけその特定の部分が、存在していて健康に機能していることに依存しているのを、われわれは知っている。しかしながら、その個人には、精神が脳の一部どころか他のどこにも局在しているとは、感じられないのである。 成長している人の精神と身体の側面は、相互の関わり合いmutual interrelationの過程に、徐々に巻き込まれるようになる。この精神と身体の相互の関わり合いが、個体の発達の早期を形づくる。後の段階で、その境界や内側と外側を伴う生きている体が、想像的な自己imaginative selfの中核を形成しているものとして、その個体には感じられる。この段階に至る発達の仕方はきわめて込み入っていて、おそらくは乳児が生まれて2.3日の内にこの展開がかなりの程度まで完結するのであろうが、これらの点における自然な発達の仕方からの逸脱が生じる機会は、途方もなく多いのである。さらに、非常に早期に当てはまることは、ある程度の差こそあれ、すべての段階についても、われわれが成人の成熟と呼んでいる段階についてさえも当てはまるのである。