うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

梅が見ごろです!と、【乳児期においては、子どもと世界との間にある関係の開始のために、この中間領域が必要であり、早期の危機的な時期におけるほど良い母親の養育(マザリング)によって可能になる。】


 ご近所の梅が見ごろを迎えました!
良い花の香りがしますが、花粉症なので、長い間マスクを外すのは無理です.........。
 ここ2、3日は暖かいので、さくらんぼの花も開花まじかでした。



 今日は、碧南から副理事長が来てくれたので、昼食を摂りながら、色々と報告させて頂きました。
入院されている方のお見舞いに行ったりしていたら、あっという間に時間が過ぎました。
 本は昨日読んだ箇所です。


〜移行対象と移行現象が主要な機能だと私が考えているものを図示してみたい。移行対象と移行現象のおかげで、自分たちにとっていつも重要に意味的もってくるもの、すなわち正当性が挑戦されることのない体験の中立領域neutral area of experienceとの関わりを、人間は個々に始められるのである。移行対象についてはこうも言える。つまり、われわれと赤ん坊の間で同意された事項とは、われわれがけっして次のような質問はしないことである。「これはあなたが思い懐いたものなのか、それとも、外からあなたに差し出されたものなのか?」重要な点は、このことについて何の決定も期待されないということである。こんな質問すら作り出されるべきではない。〜


〜この問題が、疑いもなく人間の乳児に隠された形でその始まりにおいて関わっており、(錯覚のため機会を提供することに次いで)母親の主要な形とは脱錯覚させることだという事実のおかげで、徐々に明白な問題となる。それは離乳という課題に対しては予備的なものであり、また引き続いて両親や教育者たちの課題のひとつとしても残るものである。言い換えれば、この錯覚の問題は人類に固有であり、理論的な理論は理論的な解決をもたらすだろうが、結局は誰も個人では努力で解決できない。もしも物事が順調にいくならば、このような徐々の脱錯覚過程gradual disillusionment processの中において、離乳という言葉でわれわれが総括している欲求不満が登場する舞台が設定される。しかし、離乳をめぐる現象(クラインが特に解明している〔抑うつポジションのこと−訳者〕についてわれわれが語る時は、その下に流れる過程を、つまり、さらにと徐々の脱錯覚のための機会が提供されるというような過程を当然のものとしていることを、心に留めるべきである。もしも錯覚−脱錯覚が道に迷うなら、幼児は離乳というきわめて正常なことも達成できず、離乳に対する反応も無理となり、そこでは多少なりとも離乳に言及することがばかばかしいものとなる。たんに母乳を与えるのを中止することが、離乳なのではない。 正常な子どもの場合は、われわれは離乳のものすごく大きな意味を理解することができる。われわれは、ある子どもにおいて離乳の過程により作動させられる複雑な反応を目撃する時、その子どもにこのような反応が起こりうることを知っている。なぜなら、錯覚−脱錯覚の過程がとても順調に最後まで進められていれば、われわれは実際の離乳について論じる時、その過程を無視できるからである。 ここで仮定されるのは、次のようなことである。現実受容reality−acceptanceという課題は決して完成されないし、内なる現実と外なる現実を関係づけるという重荷から、人類は解放されることはない。そして、この重荷からの解放は、正当性が問われて挑戦されない体験の中間領域によりもたらされる(芸術、従業員等)ということである(Riviere,1936参照)。この中間領域は、遊びに“我を忘れている”小さな子どもの遊びの領域へと、直接つながって連続しているのである。 乳児期においては、子どもと世界との間にある関係の開始のために、この中間領域が必要であり、早期の危機的な時期におけるほど良い母親の養育(マザリング)によって可能になる。このすべてに問われてなくてはならないのがない外的な情緒的環境の、そして移行対象あるいは数々の対象物というような物的環境における特定の要素の、(時間的)連続性なのである。 移行現象が乳幼児に許されているのは、客観的知覚に固有の重荷について両親が直観的に認識しているからである。そして、移行対象のあるところでは、われわれは主観性または客観性に関して、すぐに幼児に問いかけて挑戦したりはしない。 もし、ある大人が自分の主観的現象の客観性を受け入れるようにわれわれに要求するならば、われわれは狂気を見出だしたり診断したりする。しかしながら、その同じ大人がそのような要求もせずに個人的な中間領域をなんとか楽しめるならば、そこでわれわれも、自分自身のそれに該当している中間領域を認めることができ、互いに重なり合っていって、数々の例を見つけてうれしく思うのである。これがすなわち、芸術、宗教、哲学におけるグループのメンバーたちの間で共有される体験なのである。〜