うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

河津桜?と、【しかし、個体としての幼児がその心的活動または理解力によって相対的な失敗を許容する能力が増すのに呼応して、段階づけられた適応の失敗graduated failure of adaptationを提供することも、同様に特徴的な母性の機能である。】

 
 河津桜でしょうか?金曜日の散歩に行っている親分から写メが送られてきました。
愛知県での桜開花予想は、3月25日と朝のNHKのニュースでやっていました。
 でも最近のニュースは、あまり見たくないですね.......。昔の事を何回もほじくり返したり、力がある者がない者を徹底的に痛めつけるようなことばかり......。
それが未来志向なのか? 春になれば、近くの集荷場に観光バスが来て、農家さんで働く中国の方々が沢山やってくるし、ほんの一部の人間ばかり裕福で、国土を広げるために大枚はたくのなら、自国民を真っ先にちゃんとしてあげれば......とこの時期になったらいつも思います。内憂外患を自ら作っておいて、ですよね?


 下記は、何故か?長い間、施設で暮らしていると、施設顔(表情がなくなる)になると、岐阜の友人が言っていて、そうならないように頑張っておられたのを思い出しました。
『これは臨床的では、実際の母親への依存と、迎合complianceを基盤にした偽りの個人的な成長と並行して進行することがある。これは、最も心地わるい状況であるが生じると、それはとりわけ個体の精神が“誘惑されて”、それが身体との間に元来有していた親密な関係からこうした心へと遊離してしまうからである。その結果が心−精神mind−psycheであり、またこれは病的なものである。』

 夜勤ですが、『アトリエ・ka-gu展』を見るため、早めに出ます。


 乳児の世話においては、母親が身体的に、そしてほどなく想像力を働かせながらこの積極的な適応を個体に与え始めるということは、欠くことができないほどに重要なことなのである。しかし、個体としての幼児がその心的活動または理解力によって相対的な失敗を許容する能力が増すのに呼応して、段階づけられた適応の失敗graduated failure of adaptationを提供することも、同様に特徴的な母性の機能である。こうすることにより、乳幼児において自我ニードと本能の緊張の双方に関して、容認toleranceというものが現れるようになる。 低い知能指数を持っていることが最終的に判明するような幼児からは、初めははゆっくりと解放されるということに示されることもあるだろう。他方では、ずば抜けてよい頭脳を持っていて、結果的に高い知能指数を誇るような幼児は、母親の手を、より早くから煩わせなくなるのである。 そこでこの理論に従うならば、すべての個体の発達について、心はその基礎のうち、おそらく最も大切な起源を、自己の核心部における完全なる環境を求める個体のニードの中に有するだろう。このことと関連して、精神病は環境欠損病environmental deficiencyであるという私の見解について述べてもいいかもしれない。この理論には、私には重要と思われる一定の進展がある。 それは、母親の側のある種の失敗、特に移り気な振舞いは、心的に機能することmental functioningの過剰な活動を引き起こす、というものである。母親の移り気な養育に反応した、心的機能の過剰な成長においては、心と精神−身体の間の対立が促進されてしまうのを見て取れる。なぜなら、この異常な環境の状態に対して反応するなかで、個体の思考が精神−身体に心を配ることcaring forを引き継いで、これを組織化するからである。一方、健康な状態においてのこれは環境の機能である。健康な状態では、心は環境の機能を侵すことなくその相対的な失敗を理解し、最終的に活用することを可能にするのである。 個体がその自己に心を配ることができるようになる段階的な過程とは、個体の情緒発達の後期の諸段階に属するが、それらの諸段階は順当に、そして自然な発達の力により設定されたペースに従って、到達されて行くべきものである。 さらに先の段階に進むにあたって、次のような疑問が生まれるかもしれない。すなわち、じらして満足させない早期の環境に対する防衛の中で組織される心的に機能することにもますます大きな負荷が加わったら、どうなってしまうのかということである。誰でも錯乱した状態を思い浮かべるだろうし、(極端な場合は)脳組織の不完全さに由来するのではない種類の精神遅滞mental defectが生じることも予想されるであろう。最早期の段階の乳児の世話においては、じらして、満足させない程度がやや軽い場合の、より一般的な結末では、心的に機能することがそれ自体1つのもののようになってしまい、実質的には良い母親にとって代わって彼女を不用なものとしてしまうのを、見て取ることができよう。これは臨床的では、実際の母親への依存と、迎合complianceを基盤にした偽りの個人的な成長と並行して進行することがある。これは、最も心地わるい状況であるが生じると、それはとりわけ個体の精神が“誘惑されて”、それが身体との間に元来有していた親密な関係からこうした心へと遊離してしまうからである。その結果が心−精神mind−psycheであり、またこれは病的なものである。
 このように発達していく人格は、後の発達段階のすべてに影響を及ぼすような、歪曲されたパターンを示す。たとえば、依存を含んだすべての関係の環境的側面との同一化が安易に行われる傾向と、依存的な個体との同一化における困難とを、観察することができる。臨床的には、そのような人が、ある限られた期間内において他者にとってのものすごく良い母親となるような人物へと発展していくのを見られるかもしれない。実際このような線に沿って発展してきた人が、ほとんど魔術的とも言えるような癒す属性healing propertiesをもっているかもしれないが、それは原初的なニーズに対して積極的な適応を行うための極端な能力のためである。しかし、人格の表現の歪曲されたこのような諸パターンが偽りであることは、実践の場面で明らかになる。破綻の恐れが生じたり、またそれが起こったりするのは、その個体が常に必要としているのが誰か他の人を見つけることだからである。つまり、その人がこの“良い環境”という考えを現実のものにしてくれることにより、唯一の生き直し始めるための場所となるような依存的な精神−身体に、個人が戻れるかもしれないからである。この場合には、“心ここにあらず”が望むべき状態となる。
個体の心−精神と身体と身体間には、もちろん直接の提携関係はありえない。しかし心−精神はその個体によって局在化され、頭との何か特別な関係においてその内側かまたは外側に位置して、このことが1つの症状としての頭痛を引き起こす大きな原因の1つとなる。〜