うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

水仙と、【というのも環境がほど良いものでなかったとしたら、人間存在human beingは分化することはなかったし、正常の心理学の用語における論議の主題として現れてくることもなかったからである。】


 うたたねの駐車場に水仙が咲いていました。
調べると、ヒガンハナ科なんですね。だからニラと間違えて食べると、中毒を起こすんですね!

ヒガンバナ科
●原産国:スペイン、ポルトガル
●花期:12〜4月

日本には、中国経由で伝わりました。
清楚な姿と香りが仙人のようだということで「水仙」という名前になったそうです。
ギリシャ神話に、美少年のナルシッサスが水面に映った自分の顔に見とれてそのまま花なった話がありますが、その花が水仙です。

花言葉:自己愛、神秘、うぬぼれ


 今日は夜勤です。
 本は、朝なんとなく(笑)読んでいましたが、アップは昨日読んだ箇所です。
この運動性というのに、リトル先生が書いていた、まずは身体記憶という言葉が自動的に頭の中でついてきます。
ほど良い環境というものの大切さをウィニコット先生は口酸っぱく説かれていますが、元簑島高校の野球部の監督さん(亡くなられましたが)がよく、本当に親から愛された子供は、逆境に強いと言われていたのも思い出します。抱えられるという感覚を乳幼児期にきちんと(ほど良く)体験していたら、ウィニコット先生の象徴?でもある、移行対象を通じて、大人になっても、それと距離があっても、心の中に残すことができるのでしょうか?
 それは、大人になっても、個人的に間に合うような気がしますし、それが自分たちの仕事のようにも感じています。


 夜勤に入ります。


CHAPTER 4
情緒発達との関連でみた攻撃性(1950−55)
2 攻撃性の非常に早期の起源
〜われわれの課題は、最早期のイド体験における攻撃的要素(偶発的に破壊的destructive by chance)の前史を調べることである。少なくとも胎児期の運動の始まり、いわば運動性motilityの始まりにまで早期に端を発する特定の要素を、われわれは身近なものとして知っている。これに対応する感覚sensoryの側の要素が、最終的に付け加えられなければならないことは疑う余地がない。子宮内生活に端を発し、そんな乳幼児期に(そして実際のところ人生を通じて)存続するこの運動性を、イド体験そのものに固有の活動性と結びつけることができるだろうか?実際、この活動性はイドと自我、どちらの要素として分類することになるのだろうか?それとも未分化な自我−イドの時期(Hartmann,1952)を認めて、自我−イドの分化以前に運動性が現れるという基盤の上に立って運動性を分類する、という試みは傍に放置する方がよいのだろうか? おのおのの乳児は、原初的運動神経primitive mntilityをできるだけ多くイド体験に注ぎ込むpour intoことができなければならない。おそらくここにおいて、乳児が現実の欲求不満を必要としているのだという真実の姿が現れるだろう。というのも、イドの満足は、もしそれが完全で妨害が入らぬものであるとすれば、満足されない運動性の起源から生じるものだけを乳児に押しつけたままにすることになるであろう(Riviere,1936)。 






現実的であるという感じは、特に運動性(そしてそれに対応する感覚sensory)の起源rootsからもたらされるものであり、運動性の要素の注入が弱い性愛的体験現実感や存在しているという感覚を強化しない。事実そうした性愛的体験は、存在していないという感覚を主体にもたらすので、まさにそれゆえに避けられるかもしれない。すなわち、早期のパターンが私の記述で第1番目に位置づけと同じ種類のものではないような個人においては、そうなのである。 たとえ自我組織が未熟であるとしても、最初の授乳に先立って多くのことが起きるという結論を、われわれは与えられることになる。運動性の体験の総量は、存在しはじめるという個人の能力、そして一次的同一化primary indentationのおかげで外殻を拒絶し、その中心核になるという個人の能力に寄与する。ほど良い環境good enough environmentがそのことを可能にするのである。もし初期の環境がほど良いとするならば、そこではじめてわれわれが人間の幼児の初期の心理を論じていることが意味をなすのである。というのも環境がほど良いものでなかったとしたら、人間存在human beingは分化することはなかったし、正常の心理学の用語における論議の主題として現れてくることもなかったからである。けれども個人が存在するところでは、われわれは次のように言うことができるかもしれない。つまり、自我とイドが今や分化して、関係を維持し、そして現実原則の作動に含まれる困難にもかかわらず関係を保つ、というような1つの主だったあり方は、原初的な運動性の潜在力が性愛的潜在力へとかなりの割合で融合していることを通してのものなのである、と。